極地より愛をこめて - 1/3


親愛なる兄弟に捧げる。


「というのが今回の顛末なんだけど、……ドクター?」
 エリジウムが大げさにひろげていた腕をおそるおそる閉じる。応接室、彼らは一人掛けのソファを向き合って占拠していた。ねだるような声色に返事はなく、所在ない様子で膝上の手を組んだ。ローテーブルの向こう側に座る人間の、黒いガラスの向こうにある表情は、読みとることができなかった。随分と分厚くなった報告書をなぞる指が、一定の速度で動き、正しく最後の文字をたたき、止まった。博士は俯いたフードを重たそうに持ち上げ、くぐもった声を発した。
「ウィーディとの話に食い違いがある」
「そこはさ! あいつもあいつで、決して損失がなかったわけじゃないんだよ」
 間髪をいれずエリジウムが立ち上がった。組まれた腕も一瞬に再び開かれ、訴えかけるように前のめった。
 沈黙が続く。しばらくして、バイザー越しに空気を吐き出したような音が連続し──、そこでようやく、相手が笑っていることに気がついた。
「分かっている。彼女も同じことを言っていた」
 博士の肩が小刻みにゆれ、エリジウムは眉を下げながらソファに沈み込んだ。
「んもードクター、カマかけだったってこと」
「よくできた物語だ」
 満足そうに、紙束が机上に置かれる。労いの掌が、二、三度それらを叩いた。
「お褒めにあずかり光栄だよ。でも、ソーンズがロドスをないがしろにしてるわけじゃないってことは、これで伝わったでしょう?」
「当然だ。君たちがソーンズの決断と意思を尊重していることの確認をとりたかった」
 文字の海の中で、様々な言葉が、旅立った者の背を押していた。博士は今一度その追い風の紙を撫でてゆく。
「……そんなこと、当然だと思うけどな」
「申し訳ないことをした。ただ」
「ただ?」
 博士は報告書から手を離し座り直した。黒ガラスの奥にある眼光を感じながら、エリジウムもそれにならった。
「今後我々が彼と提携を結び彼らの寄港を喜ぶことだけならば話は簡単だが、ソーンズが関与したことを鑑みるに──……」
「そうだよね。イベリアが今のソーンズたちを、事情まるごとひっくるめて受け止めてくれる保障はどこにもない」
 両者は頷きあう。ソーンズが、如何にやむを得ない状況下の元、彼の舟に帆を張ったのか。それはこの「赤髪」が証言でき、これはロドスには通用する。だがイベリアはどうだろうか。「船長」の二文字は、あの飢えた灰色の町にどんな色になるのだろう。心の磨耗はおそろしくはやく伝播する。不安は嫌悪を、嫌悪は憎悪を呼ぶ。彼、ソーンズ、かの船長の選択はおそらく「罪」として称され、忘れ去られることはない。
「君がアーロンにとどまるという選択肢はなかったのか」
 エリジウムは目を伏せて一度唸った。
「確かに一度は考えたよ。あいつのために僕ができることって何なのかなって。でもさ、一緒に海に出なかったのに、あの街にとどまって彼のことを伝え回るんじゃ、結局ソーンズを信じていないことになっちゃう気がしたんだよね」
「なるほど。一理あるだろう」
 衣擦れの音と共に彼らはどちらともなく腕を組む姿勢になった。珍しく連絡の一つ飛び込まない応接室に、時計の針の音だけが響く。
「しかし残念だ。君の物語には一聴の価値があると思った」
 沈黙はバイザーからの声が破った。その声は冗談めいているようにも聞こえたが、挑発しているようにも思えた。エリジウムは、意外そうに笑い、いつもどおりの早口で捲し立て、大袈裟に鼻をもちあげた。
「ドクターがそんな冗談をいうとはね。僕がいない間そんなに退屈だったの。でも安心して、これからはいつものスーパーイケメンが、特殊行動隊の第三小隊隊長補佐の任を果たしてみせるからさ」
 しかしながら──それに、と続く彼の言葉は、すっかり弾速を失っていた。
「物語って。一応体裁は、報告書、で──……」
「エリジウム」
 博士はすでに撃ち終わったという様子で、余裕たっぷりに脚を組んだ。
「……ひょっとしてドクター、僕に──、戦場通信兵のこの僕に、この世界の文明的で古き良き記録方法を推奨していたりする?」
「君にならできると思うが」
 挑発だ。確信を持ってエリジウムは喉をならし、「そっか」と答える。何度か、同じ言葉を口にした。それは返事ではなく、自らに落とし込むためのものだと理解できたため、博士は分かりきった答えを待った。
「うん、そうか、そうかも! 僕ってば、どうして気が付かなかったんだろう!」
 紙束をかき集めながら、白い尾羽が飛びあがってゆれた。
「そうと決まれば、こうしちゃいられない! 早速いろいろ考えてみるよ。ああ、そうだ、ドクター、君の名前はもちろん出してもいいんだよね?」
 応接室の扉が開く音がする。入室者であるウィーディが、通路から博士を呼んでいたのだが、男のおしゃべりが慌ただしく羽ばたいてかき消していった。
「爆発の始末書を見なくなる日がこんなに寂しくなるとは意外だったと、書き添えておいてくれ」
「オッケー、いいね! 了解だよ。ああそうだ、タイトル、タイトル……」
 胸に物語を抱きしめて、エリジウムは悩む。瞳をとじ、入り口から、ソファのあたりをぐるぐると廻っては、時折、秒針よりもはやくつま先で床を叩いた。ウィーディが博士に挨拶をし、「どうしちゃったの」とエリジウムを指差すと、塩海の広さにも負けぬようなこえが、彼らの耳を吹きぬけた。
「豪胆なる船長の冒険、なんてどうかな? ドクター!」


 この物語は、斯くして書き連ねられることになったのである。船長にこの本を贈答すると決めた時、すでに私の机は遠くにあった。過去の私に、将来君は本を執筆することになると伝えても、おそらく信じてはもらえないだろう。なにぶん落ち着きのない子どもだったし──ああいや、座っていることを望まれている間は誓って落ちついていたが──ともかく、そういった退屈な故郷から逃れるために走り出すような過去だったのだ。だから彼と兄弟になった。そう、なにせかの船長、我が兄弟、我が心の友人は、「豪胆」なのだ。

 ──「豪胆なる船長の冒険」より

 

      ◇
      
     
 赤子の揺り篭クーナ・デル・ネネ号が海とイベリアの辺境各地の往復をはじめた頃、ロドス本艦には同じ内容の連絡が相次いだ。もちろん、このロックベイ旧灯台跡ロドス製薬会社イベリア支部社員も、以下のように通達していた。

「ドクター! ソーンズが海に捉えられている!」
 
 大いなる静謐の影響が色濃く残る辺境各地では、港──ひいてはドックなど機能しなくなって久しいものだ。赤子の揺り篭クーナ・デル・ネネ号がロックベイ旧灯台付近海岸の旧港へ碇泊するべく近寄ると、見慣れぬシルエットを確認するため、陸地からひとびとが寄せ集まった。当然、ロドス製薬会社イベリア・ロックベイ旧灯台跡支部の社員オペレーターも、職務を果たすためそこに紛れ込んでいた。
 速度を緩めた船は白波の上で踊っていた。
 どよめく群衆の中で誰かが「糸?」とつぶやいた。雲の切れ間から日の光がさす。それをいっぱいに浴びた縄が、船上から陸へと放たれて、きっと銀色の糸に見えたのだ。ロドス社員はそう思った。数人の船員が、光る糸伝いに船から流れ飛び降りた。快活な笑い声をともなって、ばねのように船を見上げると、力一杯に縄を引きおろす。たった数人の力の慣性で巨大な船がゆれた。「錨をおろせ」と彼らが叫ぶ。錨をおろせ。投錨だ。船の上から口々に同じ言葉がこだました。目前のうつくしい流線型の偉大な建造物から、金属がもつれあう音がたわむ。帆をしまえとひとりが叫び、波のようにさざめきあって復唱される。高低入り混じった多くの声はまとまりを持たず、しかし統一されており、とても力強い歌に聞こえた。アンカーが海へと飛沫をあげて滑り落ち、船はようやくその場で上下にゆっくりと揺れて、止まった。
 その光景に社員は息をのんだ。社員だけではない。来航をみた陸のものはみな言葉を忘れていた。恐怖でもない、畏怖でもない。あれは間違いなく、高揚だった。
 こんなにも多くのひとが、こんなにも楽しそうに、かえってきたのだ。──あの、大いなる海から。
 そうして、社員はまた息を呑んだ。今度は片眉をあげて。
 畳まれたマストの中。たわみ、垂れ伸びる縄。その先に、見知った顔が吊り下げられいる。大概の場合、その次の瞬間、役目を取り戻した港に、ひとりの前衛オペレーターの名前がとどろくことになったのだった。
 

 アーロンからより北西へ、塩海に沿うように何マイルと離れた先に、あらたに支部が立ったのは、最近のことであった。ソルトシップの技術は眼を見張るものがあり、ウィーディもこの支部の設立に一役かっていることは、ロドス人員の記憶に新しい。そこはいつも停滞した塩のかおりがしていて、トランスポーターの往来と、異常のないことを報告し合う無線を日々の楽しみにしている者が数名配置されていた。無音こそが正常である無線機が、ノイズの混じった音をか細く告げた。
「ん? 何か鳴ってないか」
「ロックベイかグランファーロか?」
「あるいは船長、、かもな」
 そりゃいいと、今し方談笑を続けていた彼ら三人は笑った。貴重な真水の入ったボトルの栓を、景気良く口でかじり開けた社員オペレーターが、無線の音量ノブををいっきにひねりあげた。
 耳鳴りが頭を焼くように鼓膜を通り抜ける。キインと鳴り止まない耳を抑えながら、音量を戻す。割れた音声が、無線機の向こう側からする。その瞬間、三人はあきらかな非日常を感じ取り、席を立って機械を囲んだ。
「こちらソーンズ。先ほど塩海支部近郊を通過したが、海へ入るには日数を要するだろう。しばらくは塩海に留まる。船員および俺の健康状態についてだが」
 そこで無線は途切れた。彼らは顔を見合わせた。一人が窓を開けるが、人の暮らす集落近くに根付いたこの支部からは、塩海を一望することは不可能だ。もう一人が卓上のものを払いのけてイベリアの周辺地図を広げる。しばらくして、ピーと通信を予告する音が鳴る。三人の視線はふたたびそこへ注がれた。
「こちらはロックベイ。説明しろ、まだ海にはでないということか? 海に出られない何かが存在するということか?」
 応答がない。
「こちらはグランファーロ。塩海で何かあったのか」
 聞くや、慌てて無線機の送信ボタンを押し込んだ。
「塩海! こちらに異常はない。赤子の揺り篭号は見ていない。アーロンより南部にいると考えられる」
「ロックベイ了解」
「了解した。ソーンズ、応答しろ」
 沈黙が続いた。
「ソーンズ! 説明しろ、結局まだ海にはでないのか? 塩海に留まる理由はなんだ。無視するな。大方お前のことだから、どうせ研究に夢中になって無線の通電状況を確認しないまま砂だか塩だかしらんがそんなものに突っ込んだんだろう! *イベリアスラング*!」
 一息の叫びが室内に罅をいれた。
 社員たちは固唾をのんで通信機からの罵詈雑言を見つめていたが、背後で突如何かが割れる音がして、彼らを振り向かせた。
「──……ちょっとちょっと、今の何?」
 声の主は笑いながらそう言ったが、目はちっとも笑っていなかった。三人のうち誰かが、「エリジウム」とつぶやき、マグカップを落とした本人を諌めようと手を伸ばす。その静止もむなしく、エリジウムは部屋に立てかけていた自身の通信旗を掴み取ると、大慌てで肩に大きな鞄をぶら下げ、割れた破片をガシャンと踏んづけながら走り去った。
「ブラザー、今助けにいくよ!」
「エリジウム!」
 塩海支部のひとりが今度こそ待てとさけんだ。しかし鳥の飛び立ちはあまりにも素早く、すでに小さくなりかけている背中から「コップごめんよ」という声が返ってくるのみだった。そんなことを咎めるつもりのものはいなかったが、三人は再び顔を見合わせることになった。そう。彼らはただ伝え損ねたことがあっただけだったのだ。
「ソーンズからのあーいう無線自体は、よくあることだぞー……って、聞こえるわけないか……」
「今じゃあ本艦であいつの無線を直に聞く日なんか無いだろうしなあ」
 塩海支部にエリジウムがやってきたのは、つい先日のことだった。
 彼が各地を飛び回ることに長けたオペレーターだと、ロドスの誰もが知っている。だが彼がこの支部に到着した時、出迎えた三人はその事実をつい忘れるところだった。というのも、長旅にあるまじき荷物の量だったのだ。供だってやってきたトランスポーター兼任のオペレーターも、彼らの顔色からすべて理解したと言いたげに苦笑していた。久方ぶりの賑やかな食事のつまみに、皆口々にロドス本艦の様子を聞いたし、当然彼の荷物のことも話題にあがった。だが、エリジウムは思わせぶりな笑みを浮かべるのみで、「まだだよ」だとか、「いずれみんなにもわかる時がくるさ」だとかなんとか並べて、鼻を高く伸ばしていたのだった。何度聞いてもそんな調子なので、三人はどうでもよくなって、「じゃあ何をしにこんなところまで」と別の話題で夜を明かすことにした。
「昨日の話じゃあ、もともとエリジウムの目的地ってのは、要するに赤子の揺り篭号なんだろ? ……放っておいていいか?」
 しばらくして、無線機が何事もなかったようにまたピーと鳴った。
「船長に関して他に報告のあるものは?」
 ひとりは眼を見開き肩をすくめ、ひとりがため息とともに割れたマグカップを片しはじめた。残ったひとりが、おれかよと笑い、送信ボタンを押した。
「あーこちら塩海。船長の兄弟が今し方救出に向かったので、心配無用と思われる」
 イベリアの他支部から、笑い声と共に了解を告げる通信が飛び交った。渡り鳥を運ぶ風が塩の上をふいていた。

 あの時エリジウムは言っていたのだ。
「ソーンズに贈り物をしにきたんだよ!」 
 


      ◇

 その小さな町は、アーロンと同じく、かつては山間に存在していた。そのため、坂を登ったさきにぽつりと切り取られ、いまや寂しさだけを残していた。大いなる静謐時に襲いきた海が引き、塩と代わって痩せた土地──きりたつほどの高い崖は少ないが、海水が手を伸ばして大地を抉り、地形は大きく変化した。塩海と町の間に海岸線を引けば、非常に入り組んだ形となるだろう。また、この町がアーロンと大きく異なるのは、裁判所の者の往来の数だ。この町は初めから対処や監視にあたる審問官が多かったのだ。ほとんどのエーギルは町の僻地へと追いやられ、さらにその大半は去り、閑散と停滞した塩のかおりがしていた。
 そしてそれは今なお変わらない。エリジウムは、ざらついた足音と共に、目の前の審問官に声をかけた。
「すみません、少しいいですか」
 審問官は、朗らかなエリジウムの声に対して無言で上半身のみ振り返り、彼の言葉を待った。金属がこすれる音がする。黒手袋が剣の柄に手を置いたのだ。何もイベリアの事情を知らぬ男ではない。エリジウムは警戒を気取られぬよう、得意の軽口を腹の奥へと追いやって問いかけた。
「船が一隻、この近くから出航しませんでしたか」
 靴音。ふたりは体ごと向かい合った。
「船」
 一瞬の間。しかし、次に瞬きをした時には、それは細剣とハンドキャノンをぬく音に変わった。決裂の合図だった。
「貴様、あの海賊団の残党か」
「え、あ、わ、わわっ!」
 寂れた町の路地を息を荒げて走りだした。鞄の蓋を、開かぬようにひっしとおさえ、後ろを見やれば、黒衣をまとったリーベリが大声でエリジウムを指差した。アーツさえとらえる彼の耳は三つの靴音を聞き分け、挟まれないように巧妙に町中へむけ足を動かしていた。
「いたぞ。追え!」
 町の外壁は黒ずんだ煉瓦でできていて、かわいた塩が根を張って模様をつけていた。騒動に気づいた町民たちは次々に扉を閉じてゆく。塩の埃が風に乗って舞うのだろう。とっくの昔に封をしたきりのような、古く、崩れかけている木の板たちが目についた。
「なんでこんな時に裁判所に追われなきゃならないの? 僕は何にも悪いことしてないけど、もしかしてブラザー、君ってばまた何かしでかしちゃったわけ?いや、君はいつだって巻き込まれる側だよねっ」
 エリジウムは窮地を脱するため、むしろ自身を鼓舞するために、乱れた呼吸のなかでわざと軽口を叩いてみせた。
 ──求める答えは得た。代償は、どうやら非常に大きかったようだが。
 あの海賊団。
 それこそエリジウムの目的地だ。ソーンズはやはり近くにいるのだ。
 西陽がさびれた町にさしていた。黒々とした路地の壁面に、硝子のようにきらきらと何かが反射している。塩だろうか、と一瞬の疑問が過ぎる。さらに小路を曲がろうとしたとき、壁面から、にゅっと、しろく小さな腕が伸びてきた。
「こっち」
 見れば、子どものためと思しき背丈のドアが開いている。ドアの内側から、見ず知らずのリーベリの少女が手招きをして、はやくとエリジウムに訴えかけた。
「わっ、わっ」
 思わずエリジウムは声を落とし、腰を曲げて潜り込んだ。音なく扉は閉じられ、ほどなくして、革と金属が石畳を蹴る音に変わった。どこへいった、探せ、という怒号が遠のいていく。口を押さえていた両手をそっと下ろし、ようやく彼らは呼吸を取り戻した。
「助かったよ、入れてくれてどうもありがとう」
 吐息混じりの小声で青年は微笑んだ。屈託なく、人懐こい笑顔に面食らった少女は、うんとかああとか言いながら顔を逸らした。
 少女の髪は塩海にそびえる岩柱のような色だった。毛先にゆくにつれ色が濁り、耳元の羽は未だ産毛を思わせるふくらみがあった。黒っぽい壁の中でも彼女が目立つのは、か細く伸びる棒っきれのような手足が、塩よりも真っ白な色をしているからだろう。
 珊瑚に似たちいさな手先、真珠に似ているまるい耳先が、ほんのりと桃色をまとっていた。どこか得意げにエリジウムは口角を上げ、室内を見渡した。
 部屋、というよりは、納屋を彷彿とさせるつくりだ。石壁は埃を帯びている。木枠に紐を張った簡素なベッドに、適当に布が置かれている。机と呼べるほど大きな家具はなく、寝台の隣にあるスツールがテーブルを兼ねているのだろう。干された肉がいくつか備蓄されている。窓はなく、今にも崩れそうな木製の壁つけ棚の上に工具が複数と──数冊の本があるばかりだった。
 不意に、エリジウムの服の右袖が引かれた。
「お兄さん、あの船のこと、知ってるの?」
 目を丸くして、エリジウムはその場にかがんだ。視線の位置は平等になり、程なくして、やわらかく拙い言葉が少女の口から紡がれはじめた。
「あのね。実は今日ね、ほんとに、ちょうどさっき、ちょっと前まできてたんだよ。それでその時に裁判所の人たちもきててね──あの船、あの船に乗ってた人たちは、私たちに、食べ物をわけてくれていただけだったの」
 少女は青年の縋りつくような大きな瞳に急かされて、必死に喋った。だんだんと強くなる声色を見たエリジウムは、そっと袖ひく手に自らの左手を重ね、空いている右手の指を立てると、「シー」と囁いた。「ごめんなさい」と彼女が手のひらを口に当てがった。笑みでこたえる。少女は、エリジウムの袖から手を離すと、口元にあった手のひらを胸元に重ねて深呼吸をした。エリジウムはそれを待って尋ねた。
「なにか……、船のひとたちは、悪いことをしていたのかな?」
「わからない。町の大人のひとたちは、銀色のおかねを渡してた。それで、後ろから私は見てて、白い髪の女の人がこっちにきて、私に、やるって、あれ」
 彼女はそういってスツールの上にころがる食料を指差した。
「私、何も渡してないし……、お礼も言ってない。逃げちゃったの」
 それを見やりながら、「白い髪」とつぶやく。思い当たる顔がひとつ脳裏に浮かび、息を吐いた。
 エリジウムは、少女からの証言に胸を撫で下ろしていた。
 何が原因で塩海に留まっているのかはまだわからない。しかしおそらく、その塩海での活動の最中に赤子の揺り篭号はこの町を訪れたのだ。
 彼はまぶたの裏に兄弟を呼んだ。船上で何かがあったのかもしれない。それで、町に物資がないか、何かと交換できたりしないか、様子を見にきたのではないだろうか。町との交渉はうまくいった、いざ出航と相なった時、たまたま、この地を訪れていた審問官がいたらどうだろう──……。
 そう考え、「お兄さん?」の声で彼は眼をあけた。少女の指が、震えていた。
「怖かった?」
 亜麻色に黒のグラデーションがかかった幼い髪を、さら、と一度だけ梳いた。
 彼女は食い入る勢いで首を横に振った。言葉はなかったが、エリジウムはそれを意外に思った。コンキスタ号で出会った、老齢の白髪の女性──ティーチを思いうかべながら。思い出の中の彼女は、実に海賊らしい風体だったから。
「やさしかった。強そうだったけど」
 微笑みが交わされ、少女は「でも」と続けた。
「裁判所の、大人の人は、仲良くしたらいけない、ひとごろしだ、って……」
「そう見えた?」
「わからない」
「だから、お兄さんがあの船のこと知っているのなら、教えて欲しかった」
 自分は今のあの船の何を答えることができるだろうか、とエリジウムは重たい鞄の蓋を開いた。あの時も渡したビタミン剤。日焼け止め、これは自分用。最後にあったとき、ソーンズが使っているのを見たことがなかったから。
 それから、と鞄を漁る手を止めて、導かれるままジャケット内側の大きなファスナーを開いた。簡単に綴じられた、おおよそ百枚前後の紙の束。この世界の文明的で古き良き記録方法が今エリジウムの手にあった。
「実はね、僕、その船に乗る人たちの冒険を本にしたんだ。……といっても、まだこんな状態だけど」
「あの海賊の本?」
「そう。でも、ただの海賊じゃない。豪胆な、真の海賊なのさ」
 初版の生原稿をざっと音立てて捲りあげながら、懐かしむように笑った。
「それにね、なんてったって、この僕の兄弟がその船に乗っているんだ」
「ええっ」
 慌てて少女は口を押さえる。
「だから、君が教えてくれた話を聞くだけで、僕にはすぐに分かったんだ。ああ、彼らはまた、この町みたいな寂しいひとたちを放って置けなくて、ちょっと元気を分け与えにきただけのつもりだったんだってことがね」
「それは、いい人ってこと?」
 エリジウムは答えなかった。否、本当は答えたかった、当然だと。
 喉にひっかかったことばを、差し出した手がはずした。
「助けてくれたお礼に、君にこの本をあげる」
「いいの?」
「もちろん喜んで」
 少女はちいさな手、瞳、口を大きくひらけて、期待のままに書籍を受け取った。
「これを読んだら、きっと君にもわかるよ。彼らは怖いだけじゃないってこと、ここで何かを待ってるだけじゃ、きっと退屈すぎるってこと。それから──……」
 今にも崩れそうな、彼女の棚に残された、数冊の本を見た。背の上下に、何度も指をかけてできたであろう、傷みのあとが残っている。日に焼けた小口、ところどころについている折れ目、読めなくなっている背表紙。
「自分の道は、自分で決めなきゃだめってこと」
 エリジウムは立ち上がり、こども用の小さな扉のノブに手をかけた。
 出発の合図に、少女は小さく手を振った。

      ◇

 彼の鞄には実に様々なものが入っていた。
 無線機、通信旗の部品、スキンケア用品、ビタミン剤、湯を沸かす容器に共にいれておくことで鉄分が染み出す鋳物、ハンディファン、櫛、ブラシ、大きめの櫛、少女がくれた工具、携帯食料、味違いの携帯食料、予備の靴(長靴は邪魔だったので今回はやめたのだが、出発の直前に取りやめたため、ロドス本艦の彼の宿舎前には今何故か砂にまみれた長靴が転がっている)、その場で印刷されるインスタントカメラ、それから、などなど、──そして、一冊の本。
「こんなこともあるかなって思ってたんだよ」
 それは少女に渡した状態から、製本作業を経たものだった。芯のある厚手の黒い表紙に、青い印字が美しくひかっている。かさついた生地はこの地によく似合って見えた。表面を一度撫でて開ければ、ぴりっと糊の引き合う音がした。
 見返しに一枚の写真が挟まっている。ロドスの本艦で撮ったものだ。何の記念でもない。ただあの騒がしい日常をいっぱいに切り取っただけの写真。ソーンズとエリジウムが肩を組み、後方で何かが爆発しているのがみえる。画面の淵にレンズにかかった黒い衣類が写り込んでいて、おそらく撮影者は博士ドクターだったのだろうと予測できた。被写体のふたりは、こんな日常をちっとも特別と思わない顔で笑っている。確か「ブラザーの髪は黒いから、焦げたってわからないかもしれないけどさ」とか言って、彼の耳をつねったのではなかったか。あたたかな郷愁がエリジウムの胸でにじんでいく。
 空になった上着の内側に入れると、当然ながらすこし重たかった。
「まあ、でもこれは大事な贈り物だからね」
 言って彼は上着の内側、重くさがった胸あたりを叩いた。これは独り言ではない。これは鼓舞だった。己への。
 そして眼下をみた。
 一面の砂世界。地平線と水平線とがまじわるところに、太陽がいま飛び込もうとしている。後ろから迫り来るものの音、足元から迫る気流の音。
 この町は、アーロンより高い崖はない。
 この町は、アーロンよりも審問官の通りは多い。
 この町は、ひどく入り組んだ海岸線を持っていた──……。
「足音は、み、みっつのままだね」
 エリジウムは自分の立っている崖先に、おもいきり通信旗を立てた。塩が宙を漂い、頬をかすめていく。ごくりと生唾を飲んだ。白い髪が揺れて、沈みかけている日に照らされる。彼の視界の中に、銀色の髪がみえる。
 髪ではないと、エリジウムには分かっていた。
「ブラザー、信じてるよ!」
 そして彼は、崖に向かって飛び込んだ。
 突き当たる空気は彼の自慢の旗をめいっぱいにひろげて、まるで、帆をはったようだった。
 エリジウムは何がしかを叫んでいた。言葉にならない恐怖をかき消すための大声だ。通信旗のアーツ拡張のパーツが明滅し、彼のひどく繊細な鼓膜が震えている。多くの声だ。裁判所の連中の声ではない。もっと、まとまりのない、それでいて統率のある声の群れ。視界いっぱいに絹のような白色が広がる。
「エリジウム!」
 その懐かしい声を最後に、エリジウムはまぶたを閉じた。