極地より愛をこめて - 3/3

 夢の中でさえ、いつも言葉が出てこない。
 何由来の出来事だったのかは覚えていない。大方、一緒になってふざけたことが始まりだ。そんな日常を繰り返していたから分かる。
 酔っ払ったお前は、唐突に俺の報告書の内容に関し、苦言を呈してきたのだ。わざわざ、人の報告書を上から下までつぶさに眺める意味も理由も解せないが、口を出す必要性も理解できない。
 何を庇ったでもあるまいに、事実だけを連ねた書類にこれ以上何を書き足せと言うのか。庇ったじゃないかとこいつは言う。わざと俺だけが叱られる書類を作っているだろうと、人差し指で決めつけている。
 善性を見出されるのはこれだから厄介なんだ。好んで悪性をはたらこうなど、ゆめ思うこともないし、他人の幸福を奪うことに喜びを抱くわけでもない。それでも、いいように解釈されるのは気持ちのよいものではない。期待を抱かれても困る。次に同じことをするとは限らない。担保もない。相手がお前ならやらないと言ったら、少し固まってそれはそれでどうなのと不機嫌をばら撒いたのもお前だろう。
 行動はいつだって単純だ。理由が目の前にある。
 あれは荒野の切り立った谷を歩いている時だった。俺が不注意で運搬途中の対鉱石病初期症状の新薬を割った。それだけだ。
 知ってただろうとエリジウムは喚いた。
 確かに、すぐそばまで増員が同じ薬品を運搬にきていることは知っていた。元より優先事項となっていたから、合流をはかった。
 その女性隊員は見聞きした事実を俺に告げる。谷の途中に粗末なテントがあったこと、鉱石が顔を覗かせていたこと、彼女の手には、子ども用のスカーフが握られていたこと。大方の察しは片隅に、支給されている地図を開く。目的地とする基地は近隣の集落にある。人里まで、あと数日強は距離を残しているということだ。大方、追われてここまで逃げ仰たのだろう。現実的ではないと告げた。やめておけとも。「それでも」という瞳に、膠着をみた俺は、地図を押し付け、具体的な場所に印づけるよう告げた。隊員の武器は真新しく、目立つ傷もない。道理で──と、合流が優先されていた理由を俺は理解した。その子どもがいると思しき場所まで俺たちは足を延ばした。
 結局、そこに息をしているスカーフの持ち主はいなかった。マスク越しの俺たちの呼吸音だけが、峡谷にむなしく響くばかりで、のちに爆発し、煙と代わるだろうことが伺えた。女性隊員はぴかぴかの剣をただぎゅっと握りしめ、動こうとしなかった。謝罪が一度聞こえたが、二度目から、これは俺に向けられているのではないと理解できた。
 その時俺は、新薬の入った小瓶を、あろうことか遺体の上に落としてしまった。彼女はそれではっとしたように動き出した。俺は無駄な損失を招いた。だから報告書に顛末を表記した。話はこれで終わりだ。
 ──どうしてお前がその話を知っている。俺はお前から酒を取り上げた。中身は瓶の半分ほどになっていた。顔は赤く、目も据わっていた。いったい何倍を摂取していたのやら。エリジウムは「かのじょからきいたにきまってるでしょお」と間延びした声で手を伸ばす。残念ながらその状態では何を取り戻すこともできない。
 なぜ、怒っているのか聞いた。
 あいつは言った。「君が言わないからだ」と。
 あいつは言う。「僕はわかっているよ」と。
 俺にはわからない。わからないのは、心ではない。今この時、自分が何を感じているのかは分かっている。
 エリジウム。俺はお前にわかっていると言われるたびに、いつも言葉が出てこない。何を渡せば、この心がお前に報いるのだろう。どんな言葉が相応しいのだろう。わかっているといつもおまえは言うけれど、それさえ、おまえは知っているのか。
 
 

      ◇


 朝日が真横から船を照らしはじめ、船の中はいっぺんに粉っぽい靴音で溢れかえった。依然として塩に開いた穴は閑寂として、見張り台から覗き込むものを物おじさせた。
 赤子の揺り篭号は、エリジウムとソーンズの慎重な観測のもと、静かに塩の波を掻いた。そうして穴の真横へと船を操り、全員が上甲板に集まった。

 実際、赤子の揺り篭号が町々で得た物資のほとんどは、陥没孔へと入り込み無事帰船するための、牽引機・ウインチ制作へと投じられていた。黄金時代を知るフアナの図面は精巧だったので、檣楼員は工作を命じられたし、ハンモックが並んでいた砲列甲板は、ここ数日の間、工具と机がより合う技術室に様変わりしていた。上下させるものが命である以上、ささくれだつ縄一本ではお話にならなかった。そのため、船に残る骨や革は、イシドロの錬金術によって縄の繊維に編み込まれ、堅牢な姿に生まれ変わっていたのだった。
 こうして作られた、おおよそ腰ほどの大きさのある牽引機と命綱が、エリジウムとソーンズに取り付けられた。金具とベルトを複雑に経由し、胸元での着脱が可能になっている。落下した乗組員は三人。牽引機の馬力と錬金仕立ての縄であれば、五人程度の人間ならば引き上げられる算段だ。
 そうして甲斐甲斐しく縄を巻かれ待つエリジウムを、皆が──もの言いたげに眺めていた。
「どうしたの? 僕の顔に何かついてる? ……ねえ、ちょっと? ヘアセットに問題ある感じ? ハンモックはあいつに押し付けたはずなんだけど、やっぱり硬すぎる寝床が良くなかったのかな、誰か、ブラシか何か、ああ、そうだ僕、自分で持ってきてるんだった、これがあれば……」
「おい。装置の負担を減らすためにも、荷物量は減らしていけ」
 ぴしゃりとソーンズが嗜めた。エリジウムは何度か文句と反論を投げたが、都度完結な否定が行われたため、渋々と、大きな鞄から小型のボディバッグを取り出し、内容物を移動させていた。やりとりを眺めている船員の緊張感が見る見るうちにゆるむ。
 牽引機の繰り出しと巻き上げの切り替えを行うハンドルに、フアナは体重をかけ、手招いて言う。
心相原質コンパスでもかまわないし、縄を引いてもいいわ。合図を感じたら巻き取る」
「分かった」
 ソーンズに向かってとびつこうとする小さな塩鱗獣──ネネを、ティーチが両手で挟み込む。「留守番だ」と一言で撫でつけると、ビニルのような音で鳴く。やりとりを横目に、ソーンズは船内に指示を残した。
「環境が変わったからといって、俺たちの知る塩海でなくなったわけではない。塩鱗獣には十分に注意しろ」
 口々に了解の返事が交わされる。荷を切り替えたエリジウムが、己の命綱を引き、穴へと続く縄梯子を投げ下ろすと、舷墻から船外へむいて座り込んだ。
「フアナさん、ティーチさん、それからみんなも。船長のことは任せておいてよ! いざとなったら腕や足くらい、ちぎってでも連れて帰ってくるからさ!」
「頼もしいこと」とフアナ。ソーンズは答えなかったが、半開きの瞳は雄弁だった。
「それじゃ、行こうか」
「ああ」
「……」
「どうした」
「ブラザーからどうぞ?」
 とたん、ソーンズは手すりへ飛び乗りエリジウムの背を押した。出発は悲鳴と共にあった。
 エリジウムが金切り声で船体にへばりつく縄梯子を掴む。そこから、ふたりは一段ずつ下がり、最後には手を離して体を綱に預けきった。心許なく聞こえる昇降機の金属音が、二人分の命を、下へ下へと繰り出していく。


 
 ──未だ穴の底は見えない。穴から吹き上がる風が体にぶつかって冷えた。
 ソーンズが、ゆっくりと下がるウインチと共に、深度を声に出す。六〇をこえたあたりで、どちらともなく布を顔に当てがった。ガスを警戒してのことだった。エリジウムは小さくなった鞄を強く抑えた。八〇をこえ、光が少なくなる。エリジウムが鞄からライトを取り出して周囲を照らす。壁面にいくつかの地層がみられるばかりで、底はなかった。
 百を超えた。
「この命綱ってどのぐらいあるの?」
「フアナと俺の予測では、五〇〇までなら戻っては来られる。とはいっても、錬金術を用いた特殊な縄だ。一時的な耐久力には優れているだろうが、歳月を超えては保たないかもしれないな」
「そう」と返事をするエリジウムの耳にも、もはや、牽引機の音はすっかり遠いものになっていた。
「海中都市の技術ってすごいんだねえ」
「ああ……、一二〇」
「もうそんなに? 何か話してくれないと寝ちゃいそうだ」
「なるほど。望むならもう一度落としてやってもいい」
「わー! まってまってまって」
 じゃれながら真上にあるソーンズの足首を掴んだ。
「そんなに怖いならはじめから」
「──ねえ、君こそ怒ってない?」
 エリジウムが唐突に聞く。ライトを未だ着かぬ底に向けて俯きながら、掴んだ手は離さなかった。
「……心当たりが多すぎるとは思わないか?」
「……僕だって、昨夜は真面目に答えたと思うんだけどな」
「なら逆だ。心当たりがない」
「そう?」
「一三〇」
「僕がしてることって、結局僕がやりたくてやってることだろ? そりゃ、こんなに素晴らしい船出は親友兼助手の僕の活躍あってこそだってのは重々承知してるよ。それから、共に海に出なくたって、僕らが相棒って事実は揺るがないこともね!」
 ソーンズはため息をついて、まうえに浮かぶ、丸く小さくなった空を見ていた。
「一四〇。一四〇文字以内に収めろ」
「僕らが最強のベストフレンドってことは理解してるとはいってもさ、君にとっては余計な──ちょっと待って、ソーンズ」
「一五〇、余計なフレーズが多すぎないか?」
「あれ、底だよね?」
 その言葉に我にかえる。ライトの光に、確かに何かが反射している。目を凝らせば、突起物が確認できた。直線の骨やメッキがかった鉄骨が幾重に連結し、複数の脚を成している。それは、小型のソルトシップの一部分だ。
は」
「使うなよ」
「だ、だよねん」
「深さは、およそ二〇〇」
 息をのみながら右腕を振るった。二人はお喋りを遠ざけて、目の前の暗闇と向き合う。エリジウムのつま先がたどりついたは、凹凸こそあったが、直立が可能な地をしていた。ふたりは恐る恐る命綱にかかった金具を外した。
 文明の明かりが周囲を照らし、輪郭をあらわにする。
 エリジウムが、思わず「わあ」と声をあげた。まっすぐに伸びた穴は、降り立った底を境として、ゆるく傾斜づいて折れ曲がっていた。目の前の空洞は、さらに「下」と、「横」へと広がりを見せているように思えた。瓦礫に埋もれた壁面も多く、途方なく入り組んでいることが伺えた。足元は湿っている。いくつかの窪みには水が溜まっているようで、靴音はときおり跳ねた。
「洞窟になっているようだな」
 言いながらソーンズは真っ先にソルトシップの周辺を見回した。右腕を数回握り締め、暗闇の中をみえているように進む。赤子の揺り篭号からすればずっと小柄な脚たちを乱暴にどける。いくつかは原型を止めておらず、屑になってしまっている。その下から、使い終わりのスプレー缶に似た、かすかな音がする。三人分の呼吸だと、ソーンズにはわかった。
「──……船長キャプテン?」
 エリジウムは駆け寄らず、ただ小さなボディバッグをソーンズに投げ渡して、偵察役に回った。息に音を乗せるので精一杯といったふうの船員たちに、イシドロは心相原質をめぐらせ、受け取った鞄の中にある簡素な包帯やテープを施した。決して、軽傷とは言い表せない有様ではあった。数多の切り傷はゆっくりと繊維を結ぶようにふさがり、正しい位置へ戻った関節は痛覚を残して船員たちを呻かせた。「やさしくしてくれ」と、誰かが消え入りそうに言う。イシドロは口角を持ち上げようとした。それでも、どうしても眉が下がってしまい、「へただな」と逆に力無く慰められた。
「船長──……」
「まだ喋らなくていい」
 イシドロは彼らに命綱の金具をとりつける。船員たちはされるがまま、キャプテンの指示を耳で受け取るに努めた。
 エリジウムが見張りも兼ねて少し周辺へと足を伸ばす。小さくかけた石を掴み、目の前へと投げやった。かん、と跳ねる音は彼が空間を理解するのには十分なもので、エリジウムは先へ広がる空間の天井を見た。
 そこは、抉り取られたように、何もなかった。──もちろん、つらら石や石柱の痕跡といったものは存在していたが──、大きさが見合わない。ぱっきりと折れたように亡くなっている。何かが、そこにぶつかって通過したかのように。
 もう一つ小石を別方向へ向かって投げた。
 かん、かん。ぼちゃん。
「──水?」
 イシドロはエリジウムと同じ小型のライトをポケットから取り出し、船員たちの体を今一度よく観察した。内出血や打痕傷がみられるのはわかる。落下に伴うものだ。──二〇〇メートルの高さでこの程度? それから無数の切り傷。船の状態を考えても、折れた木材や鉄骨など、皮膚を裂く要因は多くあるだろう。刺さっている傷も確かに複数見受けられたが──落下時に、体を貫くようなものはない……?
「ソーンズ、塩海での地下水はおかしな話じゃないよね」
「オアシスも存在はする。不思議なことではない」
 少し遠くから投げかけられた問いにはっとし、顔を向ける。水があるのかと尋ねようとしたイシドロの袖を、船員がよわよわしく掴んだ。
「きをつけろ」
「なに?」
 その言葉に、イシドロは心相原質を張りなおした。エリジウムの視線の先、ライトが照らす、透き通った、湧き水溜まり。勢いよく岩壁にはねかえった小石は、多少のあぶくを道連れにして、さらに、下へとおちてゆく。銀色の心相原質が追うように伸びる。ごぼ、ごぼ、と、不穏な空気泡が何度も浮かび上がってくる。
「ありえない」
「え? 地下水が?」
 エリジウムは今一度近づいて水面を見た。色からでは水質に危険を感じられない。
「船長」と船員たちは何度もイシドロを呼ぶ。魚のように動く口は全く思い通りにならない。イシドロは彼らの体を引き寄せて、口元に自身の耳を当てた。
「俺たちはそいつにやられた」
「いまは、んだ」
 ソーンズは、命綱を力の限り引いて、兄弟の方へと走り出した。
「エリジウム!」
 はるかな頭上。牽引機が音を立て始める。ソーンズは掴んだ縄にひっぱられる感覚を得た。
 金属の音は高く、そして極めて小さい。エリジウムには聞こえなかった。背後に突如あらわれた飛沫と、巨大な気配が、それら全てを覆い隠したからだ。ざばあ、という音は、広大な水たまりをそのまま持ち上げたような質量を予感させた。二人は思わずライトを向ける。
 みえているのは頭だけだ。ものの一瞬でそれを理解させられる巨躯だった。直径にして四〇はあろうかというこの穴の、おおよそ半分は占めていると思われた。真っ黒なからだに、白い斑点。目はなく、層にもみえるひれが左右に二つ。先端は実に鋭利で、直に振るわれた際の体は想像に難くない。大型塩鱗獣のように、圧倒的な体躯をもった、がそこにいた。
 錆びだらけで滑りの悪い錨を巻き上げるような、鈍い音が洞窟全体を揺らす。エリジウムが命綱に手を伸ばし、水を背にしようと体を捩る、その時。
「ぐっ」
 エリジウムの前方から掬うように、横薙ぎのひれが彼の胸元を切り裂いていく。幸か不幸か、彼の体はソーンズたちに近づくように吹き飛ばされた。胃から競り上がったものを吐き出しながら、エリジウムは立ちあがろうと腕をたてる。衣服の正面はばっさりと切り落とされ、上胸部分からは血液が流れているのがわかった。
 ソーンズがエリジウムの体を持ち上げ、縄に向けてふたたび投げる。切れた口内に溜まった血液が気持ち悪かった。鱗獣はいななき、またも洞窟を揺らす。水の中から這い出てくる動きは、まるで塩鱗獣のようでもあった。ゆっくりゆっくり、縄は船を目指して動きだす。一定の高度に彼ら四人が上がるまで、ソーンズは剣を抜き、心相原質でもって鱗獣を押さえ込もうと試みていた。
 ──水が靴を飲み込むまでは。
 穴が揺れる。鱗獣の腹まであった水面から、煮え釜のように泡がふきだした。
「本当にのか」
 ソーンズはつぶやき、のろのろと上がる縄へ走った。
 水面が上昇する。
 「地下水」とは、陸に降り注いだ雨が浸透し、濾過され、地下を掘り進める存在だ。陸と繋がっているのだ。ただ、この洞窟が繋がっている先は荒野ではない。海だ。ソーンズはそう結論づけた。何が原因なのかは不明だが──そこに急速な潮汐がある。
 彼らと巨大鱗獣、そして水面との速度比べがはじまった。エリジウムのアーツとソーンズの心相原質は、穴の下から五人をつけ狙う生物の動きをいちはやく捉えるためにはたらく。彼らは感覚を共有するかのように、鱗獣の速度をゆるめた。ソーンズは片腕で縄を掴みながら、片腕で剣を振るう。エリジウムは頭上を見上げ、深度を概算し都度叫んだ。
「高度一〇〇! 縄を揺らすんだ!」
 危険を承知でまだ暗い穴の底にいる縄に全体重をかけ、押しては引く。牽引機にかかる力が増えれば、何事かを察知した船側が巻き取りの速度を上げると考えたからだ。鱗獣はそんなことを知ってか知らずか、縄を狙うように鰭をもちあげ飛び上がった。エリジウムが両腕でできるだけ高いところへとしがみつくなか、ソーンズが縄を滑りおちるように勢いをつけて剣を突き立てた。ゆれた命綱が壁面にあたろうというとき、ソーンズは両足で蹴りあげて跳び、高さを維した。強い衝撃をうけた縄は、目論見通り繰り上がる速度をはやめた。
「高度、約六〇! あと少しだよ!」
 凄まじい勢いで水が下から迫ってくる。エリジウムは息を飲んで赤子の揺り篭号を見上げた。僕たち二人なら、という思考に飲まれそうになり、もういちど顔をおろす。視界に、下方で剣を振るソーンズの胸元に、預けた彼の鞄をみた。
「ソーンズ!」
 名を呼ばれ、兄弟に応えるために、ソーンズは右腕を振るった。黒い穴の上では、陽の光をあびた心相原質が、きらめく星のように見える。
「中に、マッチが入ってる!」
 聞くなり、ソーンズは、笑った。
 穴の壁面をぐるりと一度見回し、狙いをさだめると、そこへ鞄を投げつけ、縄はその反対へむけてゆらす。ソーンズは叫んだ。
「全員口元を覆え! 身を縮めろ!」
 エリジウムには、全身ぼろぼろの船員たちの「さいあくだ」というぼやきが聞こえていた。
 
 閃光。衝撃。爆発。爆風。
 
 船から固唾を飲んで見下ろすフアナが、ああ、船長が、壁面の向こう側にあるガス溜まりに引火させたのだ、と分かったのは、エリジウムの情けない叫び声がありえない速度で近づいてきた時だった。
 五名は雑な荷下ろしのように船に転がりもつれ落ちた。副船長を含めた赤子の揺り篭号の乗組員たちがその乗船を手伝いはしたものの、よもや飛び上がってくるなど誰も想像してはおらず、ただ拍を遅らせて担架を持ち寄るに至るのみだった。
 エリジウムが流血傷を抑えながらよろめいて立ち、船縁から穴を見下ろした。爆発は引火した一つの壁から連鎖するように燃え広がっていて、鱗獣を水ごと瓦礫でうめていった。ひとつ、またひとつと壁面が崩れていくたびに、鱗獣が、金属でガラスを擦る鳴き声をあげていた。
「出航──!」
 髪を散りぢりにさせたソーンズの声が、長くひろく塩漠に巡り、爆発音に覆い被さる。檣楼員が忙しなく走り、マストにかけ上がり、一瞬のうちに帆がすべて開いた。船が動きだした頃。赤子の揺り篭号は、穴のてっぺんにまで登ってきた爆風を帆に受けて、勢いよく新たな進路へ漕ぎ出すのだった。


 
 上甲板は、この空気をどうしたらいいのか測りあぐね、静まり返っていた。
 太陽は朝と反対の方角へ斜めにもぐりこみはじめ、薄暗さが船を包もうとしていた。
 穴から救出された三名は、すぐに担架に乗せられて医務室へと運ばれた。大小さまざまな後遺症はあれど、命に別状はないと断言できるだろう。
 つまるところ、彼らは「水に満ちた穴」へと落ちていったのだ。砂と共に崩落が起き、あれよと水位が下がっていった。空になっただけではなかったのだ。空になった空間に水が満ち、また再び引いていったというのが正しい。
 イシドロはエリジウムに治療を施しながら、フアナを交えて顛末を話した。「海」と繋がっている洞窟の存在には皺を寄せていたが、自分たちにどうこうできる規模ではないと悟り、首を横に振った。イシドロとて同じ意見だったので、彼は縦にふった。見張り台からは、穴が「湖」にとって変わったという報告があがった。だがしばらくすれば、きっとあの水は引き、穴に変化する。イシドロはそう思った。すでに服と呼べぬぼろ布を着ているエリジウムも、ロドスへの報告のため、いくつかのメモをとっていた。そうやってペンを走らせていたエリジウムだったが──、途中で、「もうだめ」といってペンを投げ、笑った。無音の甲板に突如高い音が鳴り、皆の注目をあつめた。
「っていうか……あははっ……、いやほんとっ、アッハ……ブラザー、今回も結局爆発なんて! 君ってもうさ! 天才だよ! ハア、あーおもしろい、あんな、爆風で船に戻ってきて、真顔でさ、出航! とかって、あ、あはは! だめだ、お腹痛いって、ねえ?」
 船員は顔を見合わせる。今し方起きた出来事の、唐突さを振り返った。
「は、はは……、そうだよな。いや、そうだよ。なんだよ、あの顔」
 ひとりが声に出すと、いいながらおかしくなったのか、笑い声がエリジウムを中心にひろがっていった。
「もっと威厳持った台詞ひとつくらい決めてくれねえと、しまらねえよ!」
「だって船長鏡見ろよ! 煤か? 真っ黒じゃねえか!」といって、ひとりが指をさす。
「元からだ」
 ソーンズがそう張り合うと、どっと音の輪が広がった。
「船長! 酒でいいか!」
 まどろっこしい。最初からそう聞きゃよかったんだ。口々に罵り合い、皆が同じ号令をまった。
「船長!」
「野郎ども! 宴だ!」


 
 騒がしいデッキを眺めながら、舵輪を預かっているエリジウムは待っていた。フアナが階段をのぼりながら、「待たせちゃったかしら」とエリジウムに声をかける。彼女の腕の中には、何枚かの布がくるまっていた。
「いえ全然。美しい女性を思う時間はいくらあったって困りませんからね。……というか、むしろ申し訳ないです。貴重な服も貰ってしまって」
「あなたって本当、口の回る良い子なんだから。船員の命と引き換えにできない服なんて無いわよ、気にしないでちょうだいな」
「ありがとうございます」
「前の服は処分しておく? 別布を継ぎ足せば使えなくはないんでしょうけど……、前見頃は派手に切り落とされちゃっていたし……」
「そうですね……、ネネの寝床にでもしてあげてください」
 その言葉に頷き、彼女は新しい服と彼が握っていた舵輪とを取り替えた。エリジウムは巻かれたばかりの包帯に注意をはかりつつ着替える。ほんの少し袖丈が短いような気もして、いつだったかソーンズの口から聞いた、元の持ち主のことを思った。答え合わせをするように、フアナは「あなたには少し小さかったかもね」と、目の前のリーベリの姿を焼き付けようと瞳を細めた。
 船上にわっと歓声があがる。下から梯子をのぼってきた船員が、おもたそうに何かを引っ張り上げる。ギターによく似た楽器に見えた。へえと船尾デッキから眺めていると、演奏がはじまった。階下からは次々に少し不格好なお手製の楽器たちが顔を覗かせ、どんどん演奏は豪華になっていく。陽気な音楽に手拍子がまざり、エリジウムも同じように叩いた。
「踊ってきなさいな」
「え! いやでも僕」
「ほら、待ってるわよ」
 フアナが手のひらで指し示す先。いつの間にやら、デッキの中央にはソーンズを取り巻く空間ができている。ふたりは視線を絡めた。ソーンズは顎でエリジウムを呼んだ。有無を言わさない得意げな顔に、思わず苦笑する。
「僕、君たちの踊り方とか知らないよ!」
「俺を真似ればいい」
 言って踵をたかく上げ踏み鳴らす。未だ少し躊躇するエリジウムを、乗組員たちが引っ張り、輪の中央に放り込んだ。
「ちょっとちょっと」
 どこからか、イベリアの故郷を偲ぶメロディーが口ずさまれた。
 一人が歌い出せばもう詞はわからなくなる。正誤も混じり、音の高さもやたらめったらなその合唱は、遠い海の言葉を使うひとつの生き物のようだ。私たちはいま同じ歌を歌っている。それだけが重要なのだと分かった。
 左右から交互にタカタカと素速く息のあった手拍子パルマが続く。一つだった弦楽器の響きがまた一つと増えてひろがる。心臓は革の張りに呼応するように脈打ち、しなやかに上へと伸びる互いの手をはやく取りたくて仕方なくさせた。視線がものがたる思惑を笑う。見つめ合い回り踊る彼らの外脚はリズムにのって地を跳ね、掻き鳴らされたギターの音が終わるとともにぴたりと寄り添った。
 革鼓が鳴る。足を運ばせる。背を合わせて離れ、近づいては腰へ胸へと腕を這わせ、また回る。たくらみを隠せない表情のまま、我慢比べで顔を寄せあう。鼻先が触れればもう周りの笑い声もきこえない。おかしくって笑う、下手な声だけで鼓膜を満たしていたい。
 情熱的な踊り手に喝采ハレオが舞っている。終幕が近い。拍も弦も、畳み掛けるように二人を急かす。すこしだけ背丈の勝るエリジウムの腰を、向かい合うソーンズが強引にひきよせ、空いた手で胸を押してのけ反らせた。エリジウムは体躯に対しやわらかく伸びた。突然の要求に驚きながら、それでも破顔して声を出す。反論はなく、乱れ鳴った弦楽器の最後の一音と共に、体は素早く戻された。
「あはっ」
「上手いじゃないか」
 割れんばかりの拍手の中へ、次々にみなが混ざりにいった。俺も私もと人波がふたりを割る。今このとき同じ船にいる。エリジウムは、すっかり口角があがりきり、痛みを覚えるほどの頬をさすり喜んだ。一筋の涙は決していたましいものではなかった。

 喜びの鳴り止まないデッキを見下ろす、見張り台のさらに上部。メインマストのシュラウド部分にソーンズは登った。酒瓶を二つ指にひっかけて、慣れた足捌きは梯子を数段とばしながら体を運ぶ。最後の数段はつまさきすらひっかけず、右腕の力で持ち上げのぼりきる。先客がひとり、賑やかな船の音楽を感じながら、夜空を見上げて座っていた。
「星が綺麗だな」
 声をかければ、エリジウムは待っていたと頬を緩めた。
「やあキャプテン! みんな盛り上がってさ、いい夜だね。隣に座りなよ。それとも僕を口説きに来たの?」
 言われるがまま座ると、酒瓶を手渡して何の合図もなく飲み口をぶつけあった。
「だとしたらどうする」
「下手すぎてダメ出しするところだったよ!」
 喉越しの良い音が沈黙をつくる。絶えず歌と声はもつれあい、肩を組み踊りふざける船員たちの中で、二人を探すものはどこにもいなかった。眉間に力がはいり、きもちよさそうに彼らは酒をあおった。
「ねえソーンズ」
「なんだ、聞こえない」とおどけたので、エリジウムは親友の耳元に顔を寄せた。
「全部うまくいってよかったね!」
「なぜ小声なんだ」
 おかしそうにソーンズがエリジウムの顔を押しやった。アルコールの心地よい気だるさに肩を振るわせながら、エリジウムがソーンズの肩に体重を預けると、同じ分だけ重みが返ってきた。ふれあった場所から、やわらかい気持ちが溶け出してゆく。
「エリジウム」ソーンズは囁くようにつぶやいた。
 口では答えずに、目玉を動かした。
「──いや、なんでもない」
 エリジウムは拳をあげ言った。
「ええ? なにそれ、僕、明日には帰っちゃうっていうのに!」
「なんだ、口説いて欲しかったならそう言え。今夜のお前は星より綺麗だ」
「ちょっと、本当におもしろいのやめろよ、酔っ払い」
 明日には帰る。あれから船は没落地周辺から、イベリア支部へと進路をとった。元々受信機能を拡張した通信機は、その後問題なくロドスの信号を拾った。聞けば、一定の間隔で同じ内容が通達されており、それはエリジウムに向けられたものでもあった。次のロドス勤務トランスポーターの通過時刻、集合地点、本艦に行方不明として連絡をとるまでの残り日数などが、簡潔に──しかし、心配そうに繰り返されていた。
 聞こえてくる旋律に合わせて瓶を指ではじきながら、ソーンズが尋ねた。
「それで」
「え?」
「贈り物とはなんだったんだ」
「あ、あー」
 すっかり軽くなってしまった胸元を隠すように、中身の減った大きな肩下げ鞄の蓋をあけながら、エリジウムは一息に言った。
「ほら、これ、花火だよ。君、イベリアの別の街でお祭りみたいなのやったって言ってたでしょ? それでさ。どのみち、この鞄自体、もう船に置いていくつもりだったし」
「そうか」
 あっさりと引き下がり、ソーンズは自身の衣類をまさぐって何かを探した。そうして、彼はエリジウムの前に取り出したものを突きつける。
「ならこれは何だ?」
「嘘!」
 それは一枚の紙だ。文字が綴られている。もっといえば、文章が。さらに加えれば、エリジウムが嫌というほど眺め、頭をかかえ、捻り出した、ただひとりのための物語が。
「読んだの⁉︎」
「これだけだ。あとは吹き飛んでしまった」ソーンズはそういって残りの酒を口に含んだあと、「おまえが鱗獣に飛ばされた時に」と付け加えた。
「はーあ。やっぱり君に隠し事はできないね。ばれ方もなんだかお粗末だったけど……」
 エリジウムも、意を決して酒を飲み干した。
「実はね、驚いてよ。君がモデルの物語を作ったんだ」
「……物語」
「そうだよ。君が出航するまでの報告書、博士にめちゃくちゃ人気だったんだ。だから僕も、これで書籍という名の大海原に漕ぎ出すのもありかな〜とか思ってさ! それで早く読んでもらいたくて、大慌てで初版をね。──まあ、訳あって、一冊分はイベリアの麗しき少女にあげちゃったんだけど、そこはそれ、僕の美貌に見惚れる娘のひとりやふたり、ファンサービスってやつ? してあげないと、って、思ってね。あとは、そうだなあ、君にあげようって思って、ロドスで僕たちが撮った写真を挟んでた」
 どん、と肩をぶつけにいった。自傷気味な語尾を感じて、ソーンズは兄弟の背中に腕をまわし、数回叩き、さすった。「おこしてしまった出来事」に、責任を感じるべきは自分であるはずなのに、勝手に肩代わりをしてくれているのだと感じたからだ。
「聞かせてくれ」
「内容?」
「ああ」
「長くなるよ」
「かまわない」
「もうみんな寝ちゃうかも。あかりが消えたらどうするつもり?」
 見下ろせば、おやすみという声がちらほらと聞こえ始めていた。
 ソーンズはエリジウムの空き瓶を奪いとると、二人分のガラスを両手で包み込み、熱で溶かすように小さく握りしめた。そうっとひらけば、指の隙間から光がもれこぼれる。橙色の目が、「これでいいか」と問いかける。返事をせずに、エリジウムは「まずはね」と本の書き出しを語り始めた。
 
 船から、ひとつ、またひとつと音が減ってゆき、明かりが次々に落ちていく。空はだんだんと濃ゆい藍色に染まってゆく。
 丸くゆらめくガラスの塊はちいさな星に似て、ふたりのあいだで輝いていた。体を預けあい、輪郭の重なる場所で照っている。影は二人の反対側へ長く伸びていた。まるで、互いが互いの光源であるかのように。
 どう?と聞く声に、目を伏せて、悪くないと答えたのを最後に、赤子の揺り篭号から、光が消えた。
 
 

「結局ソーンズのために持ってきた贈り物はボロボロになっちゃったなあ!」
 翌朝、彼らは確かに寝不足だったが、実に晴々とした心でいた。エリジウムの手荷物は実に簡素なものになり、言っていた通り、大きな荷物のほとんどはこの船に置かれることになった。(余談だが、スキンケア用品はほとんど全て彼が持ち帰った)
 船首近くから、ロドス遠海支部のソルトシップが近づいてくるのを、二人は眺めている。
「そうでもない。なら昨夜貰った。あと一つだろう。ほら」
 撮らないのかとソーンズはエリジウムを小突いた。その場で印刷されるインスタントカメラ。シュラウドの上で鞄を探り合い、これがあるじゃないかと二人で笑いあった、さまざまな中身のうちの一つ。別れの前に撮影しようと決めたのだ。
「撮ってあげる。ほら、ならんで」
 フアナがカメラを受け取る。彼らはどちらともなく肩を組み、どことなくぎこちなく並んだ。なんだかその様子がおかしく、微笑ましくて、「笑って」とフアナがふきだした時、彼らの背後で、ドンと発砲音が響く。
「お、ロドスの信号弾だ」
 写真を撮影しているなど露ほどもしらない乗組員が、見張り台から「横付け用意」と声をあげる。カメラは問題なく起動し、じい、と音を立てて撮影結果を印刷した。手渡された一枚の紙切れを、二人は面白がって覗き込む。
「ねーえ。僕らってずっとな運命なのかなあ?」
 赤子の揺り篭号の船首の向こう側に、ロドスの船がしっかりと信号弾を打つ瞬間がとらえられ、よくわからない爆発風景になって浮き上がる。
 つづけて、もう一枚。彼らの耳に、シャッター音と、印刷音がやってきた。
「いい顔」
 フアナがぱたぱたと焼き上がった写真を乾かしながら眺めた。笑い合い、同じ写真を見つめ合う二人の写真。なんでもない風景をただいっぱいに切り取っただけの、どうだっていい大切な瞬間だった。フアナがその写真を手にしているのを確認したソーンズは、手元にある新たな爆発写真を、エリジウムの服のポケットに突っ込んだ。
「え」
「俺にはあれがある」
 ロドスのソルトシップが真横に迫る。エリジウムを呼ぶ声が複数聞こえ、その中には、無事でよかったという安堵もあった。赤子の揺り篭号の船員がロープを渡し、受け取り、帆を畳みと、いそがしく動き回る。「副船長」と遠くから呼び声がかかり、フアナは二人を背に歩み出した。
 人の声の波の中、続こうとするソーンズの腕を、エリジウムが震えながら掴んだ。
「ああ、ごめん。えっとさ。何を言えば良いんだろう。僕、すっごく君に──」
 ポケットの中の写真のことを思った。たった二日ばかりのことを、遠き日々と重ねて思い返した。二人とも同じだった。
「今だけじゃないんだよ。君はさ、心相原質で僕を見つけたから探しに行けなくなったなんておもしろいこと言ってたけどさ」
「おい」
「僕が、僕のこと、君の足手纏いだって思わないようにしていたでしょう」
 エリジウムはソーンズの腕から、そっと掴んだ手を離す。
「僕のせいだって思わないように──……違う?」
 どうやったら返せるのだろう。込み上げる思いが胸を焦がして、喉を焼いているのを感じた。
「ソーンズ、僕の言いたいことがわかる?」
 離れたエリジウムの腕を、今度はソーンズが掴む番だった。
「エリジウム。お前が分かる」
 出発の用意ができるまで、二人はそうして抱き合っていた。誰も彼らの涙に触れたりしないまま。
 
 
  
 水平線を恋しく思う。心相原質が迷いなくまっすぐに進路を指し示す。渡り鳥をのせる上昇気流が耳をくすぐる。肩にかかる青い外套が旗の如くたなびき、果てない海へと誘っている。
 地平線で旗を振る友を置いて海を征く心のなかに、寂しさがある。それを忘れたことはなかったから、寂しくはないだけだ。遠ざかる小舟をイシドロはただ見つめている。互いが塩の粒と化すまで。
 頭上から、「船長キャプテン」と見張りが叫ぶ。望遠鏡から顔を離すことなく、その先へ指差した。
「なんか、こっちを見てるやつらがいます。子どもかなあ」
 アーロンよりも北西に位置する、彼らが追われた低い崖が見えた。荒野へと戻る兄弟と同じくらいの小ささが、二つだろうか。ぎゅっと目を凝らしていると、ティーチが望遠鏡を「ん」と言いながら乱暴に目に当てがった。
 くすんだ岩柱色をした髪に、ましろの枝きれのような手足だ。表情はよめない。丸い頭に産毛のようなふくらみが見えて、きっとリーベリだと思った。隣にいるのは──エーギルなのだろうか。年近い子どもたちのように思えた。
「あれは……」
 一歩、船のへりへ近づく彼のつま先に、何かがふれた。
「ネネ」
 エリジウムの置き土産──なんとも大きな肩下げ鞄の中から、小さな女神が顔を出す。「なぜそんなところに」と言いながら、ソーンズはしゃがみ込み、彼女をひっぱりあげる。
「……エリジウム」
 その底から出てきたものに、思わず親友の名があふれた。
「本当に、お見通しだったのか?」
 胸にすむ男に尋ねる。ただいつもと同じ顔で笑うばかりの兄弟に、喉の熱さを感じて瞳を伏せた。
 イシドロは立ち上がり、船上に命令を下した。
「大砲用意!」
「た、大砲用意! え? キ、船長、目標は? ていうか、今ある砲台なんてせいぜい信号弾くらいしか……」
「あの崖の手前を狙ってやれ」
 見張りの望遠鏡の先をあごでさし、船長は掌砲手に向けて大きな鞄を投げる。
「ただし、中身はこれだ」
 


「ねえ、やっぱり危ないんじゃないの。こんなことして」
 毛先が赤桃色ににじむ子どもがひとり、リーベリの少女の袖を引き、崖から町へと戻るようはたらきかけている。審問官が帰路へとついたこの町で、海賊船を見るのなら今しかないと、彼女がいうのを止められなかった。それが少年の言い訳だった。
「本当だもん! だって、この本に書いてあったんだもん。キャプテン・ソーンズは、気難しくて面倒なやつだけど、ひとの幸せと笑顔がなにより好きな、豪胆な船長なんだって!」
「でも──」
 少年の反論を拒むように、食い入るように、塩の沖合から、どおんと大きな音が響いた。
 思わず二人は船をみた。
 その刹那、塩の海はあざやかなキャンバスに変わった。
 赤、緑、青、複雑な光と、色のついた砂たちが、二人の前でばちばちと弾けて広がる。美しい、真昼の星。数えきれぬ花火が次々に、赤子の揺り篭号から打ち上げられる。
「わあ!」
「す、すごい……」
「やっぱり本当だったんだ! キャプテン・ソーンズはたくさんの色の星をつかいこなせる船長なんだ!」
 リーベリの少女は瞳いっぱいに光を浮かべて笑った。
「言った通りでしょう」と興奮気味に少年の手を取り、跳ねた。
「おうい! おうい!」
 
 
 エリジウムは笑った。瞳にいつく兄弟を想って。
 ソーンズは笑った。胸にやどる兄弟を想って。
 彼らはみな手を振った。
 別れの花火が見えなくなるまで。
 


 
 さて、この物語はかくして帆を閉じる。この物語を書くにあたり、実にさまざまな縁ある友人たちに助言をいただいた。厳しくもあたたかな指摘から、愉快に思う笑い声という反応まで、幅広くすべて受けとめさせてもらった。ここでは──興味深いことに──、以下の言葉を共通してもらったので、少し話そうと思う。

「お前に限って、あいつに見返りを期待してるわけじゃないってことはよく分かってるつもりだよ。けど、ソーンズのやつは恵まれてんなあ。こんなにたくさんもらってさ」
 
 当然、私は気前のいい男であるし、事実、親友のためとあらば一肌も二肌も脱ごうという心意気と、脱いだことで他者に与える好印象も多くあろうと自負している。そのため私はいつも「まあね」といって笑うにとどめているが、真実胸中にあるのは、私が彼に何もかも与えていると思うのならば、それは誤解だということだ。
 もちろん少なからず与えてはいるだろう。
 けれど、我々は生きている以上、誰しも誰かに溢れんばかりの感情を見出し生きている。私も多くの人にもらった。それは私の上司に、戦友に、恩人に──それから、彼に。
 与え合い、分け合い、返しきれぬと時に涙すら浮かぶもの。
 その感情の名こそ、希望である。

 ──「豪胆なる船長の冒険」より


「なるほど。これはいい写真だ」
「そうでしょ、なんていうかさ、思わず笑っちゃったけど、すごく僕たちらしいよね」
「私も赤子の揺り篭号を訪れたくなったよ」
「ぜひそうしてよ。ちょっと向こう見ずだけど、みんな気のいい人ばかりだし、博士ドクターならきっとネネにも気に入られるって」
「おや。この筆跡、これはソーンズが?」
「──筆跡?」
「裏面に、ほら」

 

 永遠の兄弟に捧げる。はるかな海より、星をひきいて、愛をこめて。