極地より愛をこめて - 2/3

 ──夢の中では、僕たちはいつも笑っていた。
 いつから僕たちは兄弟だと言い出したのだろう。
 あれは何の時だったかな。君が一度、今回みたいにさ、長い期間通信の外へいっちゃったことがあったでしょう。それも、ロドスに配属されてすぐくらいの時に。もちろんブラザーに悪気があったわけじゃないことくらい分かってるよ。君の考えてることって、君が確率だなんだやかましいから複雑に思われがちだけど、目の前で起こっていることが行動の理由なだけで、実は誰よりシンプルなんだよね。
 それで、君の剣術って入ったときからちょっと変なことで有名だったじゃない。だから、何かあったとしても、きっと一人で解決できちゃうんだろうなって、僕は全然心配してなかったんだ。
 だけど、君が外勤へ出ていく前──……、僕たち、ロドスの他のひとも交えて、賭け事してたでしょう。大きい声じゃ言えないけどさ、結構な額かけてたじゃない。いや、まあ、もちろん良識の範疇で、だよ? ドクターやケルシー先生には言ってないよね? 約束したよね、ブラザー。ええと、それで、そのお金で何するのって尋ねたら、ブラザーは迷いなく「実験」って答えてた。僕がなんて言ったかは覚えてる? 僕はね、加工所で眠ったきりの、置物になっちゃってるあの音楽プレーヤーを直すって言ったんだよ。だってあのコンポ、すごくオシャレだったじゃないか。色もそうだけど、なによりレトロで重厚感のあるつくりなのがさ。そいつが故障しちゃって部品は古くて高騰してて……。僕だって部品さえ手に入れば直すくらいやるのにって状況だったんだけど、どうやら本当に覚えてなさそうだね。
 結局その賭け事は、君の大逆転勝ちで終わった。僕たちは全員、君が何かイカサマでもしたんだろって笑いながら指差しあって、君は潔白の証明のためなら、とかいってイベリアのダンスを披露してくれたんだよね。あれは本当にいい踊りだったよ。君が終始真顔なこと以外は。僕たちみんなお酒を飲んでいたから、もうおっかしくって、机を叩いたり床に転がったりして──そんな日々が大事な時間になるとか全く思わないで、そのまま眠っちゃったんだ。
 ああ、話はちゃんと戻ってくるから心配しないで。君が音信不通になっちゃって、僕は特に心配もしないまま、君の部屋に行ったんだ。しばらく帰ってこないかもしれないし、貸しっぱなし……いや、押し付けっぱなしのCDを回収しておこうかなって。それで君の部屋の電気をつけた。僕、とっても驚いたんだからね。何を見つけたと思う? 僕が直そうとしていたあのコンポだよ! 機械は埃一つまとってなくて、ぴっかぴかになって蘇っていた。プレーヤーの電源ボタンを押したら、あのちょっと前時代的なな通電音が聞こえてきて、直ったって事実が足先からわいてきたんだ。でもね、そのコンポには張り紙がしてあった。紛れもない、ブラザー、君の字でね。
「直った。好きに使え」
 僕はそれを見て──……、次の呼吸の時には、走ってたんだ。
 なぜって、ソーンズ。君、本気で言ってるの? こんな状況でこんなこと書かれてみてよ。もうロドスに未練はないって言ってるようなもんだろ。君は二度と帰ってくるつもりはないんじゃないかって心配するのが筋ってものだよ。僕は本当に兄弟思いのいいやつなんだから。……ちょっと。興味をなくさないで。冗談だってわかってるのなら、もうすこし突っ込んでくれない? 君に本音を言ってくれる人は、イベリアの船の上でも増えやしなかったてこと? ああもう分かったよそうだよ違うよ。
 ──ともかく、あとは知っての通り。僕は縦にも横にも広い我らがいえを走って走って、君の外勤先までトランスポーターを訪ね訪ねて……。いやいや、僕らの小隊に任務がないってことはもちろん分かってたんだってば! 格好つかないなあ!
 たくさん走って歩いて、僕は君の声をみつけた。ブラザーは当然、なんてことない、けろっとした態度で立ってた。「通信機は」って息も絶え絶えに聞いたのに、気まずそうに「壊れた」っていうばかりでさ。
 君はあのときも僕に同じことを聞いたね。
「なぜ助けにきた」
 なぜって、ソーンズ。
 君ってなんて不器用なやつなんだ。
 ひとりぐらい、君の心を拡声するやつがいたっていいじゃないか。そんな面倒で付き合いにくい役、僕がやらなくって誰がやるんだよ。あの時僕はすぐに思った。こいつは、ロドスに帰って、きっとなんでもない顔で当然の理屈みたいに「空腹が理由で彷徨った」って報告するんだと。違うよ、ソーンズは僕の代わりにコンポを直してくれたんだ、そのせいで実験に必要なパーツがそろわなかったから、外勤のときついでに少し遠出をした結果、出先のトラブルで通信機の調子を悪くしただけなんだって、僕が言わないで誰が言うっていうのさ。──……え?空腹だったのはほんとでしょ? お腹鳴ってたじゃない。あんまり僕の耳を嘗めるなよ。
 じゃあ君は? 君はなぜあの賭け金を僕のために使ったの? 金がそこにあって部品が買えたからって言うんだろう。僕だってそうだよ、いつだって君を助ける理由はシンプルだ。
 だから僕はこう答えたんじゃないか。
「君の兄弟だから」
 ──ってさ。
 僕には君の心が聞こえていてたよ。
 君はずっと心に故郷をすまわせていただろう。僕でさえ気づいている事実に、いつだって目を逸らしていただろう。僕はずっと思っていたんだ。僕が背を押してやらないで、誰が君の背を押すんだって。君が僕の瞼の裏にずっといてくれるみたいに、僕だって、どんなに遠く離れても、いつだって君の胸に生きているよ。ねえソーンズ、僕は分かっているよ。君が最後に、僕に挨拶をしなかった理由も。
 


 彼の頭の中に、エリジウムを呼ぶ声が響いた。エリジウムは微睡の中にいたので、寝返りをうちたくなった。髪型を理由にハンモックは断ったはずだと思い返しているうちに、段々と、強く体を揺さぶられている気になってきた。そこまでされても、エリジウムの脳裏は未だ心地よくも騒がしい帰る場所の中にいた。宿舎の独特のつくりのベッドに寝転んでいるつもりで、手つきは毛布を探していた。指先が何を掠めることもなく浮遊する。
 瞬間、頬を強くはたかれた。
「エリジウム! 起きろ!」
 平べったい衝撃に、仕方なく、重たいまぶたがゆっくりと持ち上げられる。
 急な光はどこか眩しく、しかし、目を開けてみれば夜を待つ薄暗さがあった。夕暮れ時だ。
 視界に銀の糸をとらえた気がする。
「……君は……」
 力なく倒れたエリジウムが、前方の空へ腕を伸ばしていた。背にひとの温もりを感じながら。
「ああ。俺だ」
「ソーンズ……」
 エリジウムの背にソーンズの腕が回り、上半身を支えて起き上がらせた。双眸が相手の輪郭を徐々にあらわにしていくと共に、よろこびで口がひらいていく。
「ソーンズ!」
「エリジウム」
 互いの両腕がひっしと巻きつき、互いの背を競い合うように叩いた。次の瞬間には、エリジウムは口から塩を吐き出していたが。それでも、「よかった」とエリジウムが黒小麦色の耳元近くで囁くと、ソーンズの掌はそっとエリジウムの背をなでてそれに応えた。
 ソーンズの肩ごしに見渡せば、船員が人溜まりとなって自分たちを囲み、もの言わず待っているのが分かった。心配そうな顔もあれば、笑っている顔もあった。だが、エリジウムには、皆一様に疲労を浮かべているように見えていた。
 マストの上から、一人の船員が縄伝いに飛び降りると、「船長キャプテン、上から三人だよ」と豪快にその人波を割った。甲板後方から「さあ船長、早く指示を」と聞き覚えのある声がする。艶と貫禄を併せ持つ声の主は、エリジウムにとってもはや懐かしかった。
「フアナさんも、元気そう、、、、、だね」
「……事情はあとで話す。船長室へ来てくれ」
 ここはイベリア、アーロンから北西へ、何マイルかコンパスを走らせた先にある町。その崖下。入り組んだ海岸は船を隠し、陸からの追手を巻くのに適した地形だった。岸壁上の審問官たちはなにやら騒がしかったが、甲板のならず者は誰ひとり恐れてなどいなかった。
 最後だと言わんばかりの力強い鼓舞がふたりの背中を振るわせた。エリジウムは立ち上がり、自分の手でおもたい鞄を持ち上げた。
 頭上一面に広がる橙色の空に、黒い幕が下ろされようとしている。沈みゆく太陽が、塩漠をひかる粒にかえていく。夜がくる。
 船長ソーンズの声が赤子の揺り篭クーナ・デル・ネネ号に高らかにゆきわたった。
「錨をあげろ! 帆を張れ! 野郎ども、出航だ!」

 

塩平線より愛をこめて

 数日前。
 
 海の上から塩の上へと戻ってきた一行の船長イシドロは、異変を感じ取っていた。それは気候や大地の変動ほど大きなものではなく、あくまでも些細な違和感だった。船員の誰もが無事の航路に浮足立っていたことから、おそらく心相原質を宿していなければ分からない程度なのだろう。海の直線、水平線は数週間ほど前に去った。今は砂の真っ只中だ。この調子ならロドスの塩海支部の通信圏内にもう数日で入ることができるだろう。海と陸の差はこれまでの航海で容易く多くみつけられたが、皮膚にべたついた塩の味ほど強烈に同じものは未だにない。何かを確かめるように、イシドロは右手をなんども開き、また握りしめる。船橋から甲板へ下り、舷墻げんしょうに肘立てて、見えない不和を探るべく、はてしない塩平線をじっと睨んだ。
「浮かない顔じゃないか、イシドロ」
 シュラウドロープを引っぱって、ティーチが声をかけた。言いしなに、片手の酒瓶の口が向けられたが、イシドロは首を横に振った。
「酒じゃないんなら問題だ。言ってみな」
 アルコールを漂わせるティーチが隣を陣取った。「隠し事じゃない」とイシドロは鼻で笑い、言葉を選んだ。
「何かが、いない……ような、感覚がある」
「いない? ってのは、……良いこと、なんじゃないのかい?」
 良いこと。その表現も似つかわしくないのか、イシドロは眉を顰めた。背後から、またひとり傍聴者が声をかける。
「なんにせよ、私に内緒話なんて感心しないわ」
 ティーチが「フアナさん」と瓶をもちあげると、短いお礼と共に酒はフアナの手に渡った。高いヒールで甲板をつつきながら、空いていたイシドロの右隣に並ぶ。舷墻にはすっかり馴染んだ三人がいた。じろりとイシドロが左右に両目を回し、わざとらしいため息で返事をした。
「環境の変化はなるべく把握しておくべきだ。調査に向かうべきだろう」
「賛成ね。大型の塩鱗獣の移動程度のことですめばいいけど」
「程度って……。どのみち、いつだって食料は有り余ってる訳じゃありません。ここでついでに狩りのひとつふたつこなしておくのは大いに賛成です」
 三者三様、満場一致。握られた拳二つ、酒瓶一つ。ゴンと同時に柵に音をたてて振り下ろされた。振り向けば、もう指示を待つ船員で埋まっている。
 
 心相原質の違和感の糸をたぐるように、慎重な風を受けた船はゆっくりとした足取りで進んだ。せっかちな船員や酔っ払いは、しきりに「どこへ行くんだよ」と文句を叫んでいたが、イシドロが応答すら二の次にして、腕の感覚をみつめているのを悟ると、次第に野次は聞こえなくなった。
 そうして、何度か星を見て、太陽を見た。赤子の揺り篭クーナ・デル・ネネ号に大きな乱れはなく、ことの重要さを誰もが心で理解しはじめた頃だった。真昼の強い日差しが降り注ぐ中、アーロンの沖をさらに何マイルか北上したあたりで、塩漠にあって当前のものが、少しずつ、少なくなっていることがわかった。
 ──骨だ。
「この一帯だ」
 イシドロが右手を回し、天に向けて掌をひらいた。その一瞬、イシドロを中心とした円形のきらめく線が、音もたてずにひろがり、塩海を漣立てた。塩がゆれる音だけが聞こえ、蜃気楼が遠ざかっては近づいた。イシドロは両目を強くつぶった。研ぎ澄まされた感覚と、何よりもうるさい情報たちが脳を埋め尽くしていく。一つの仮定を立てては、新たな情報による矛盾がそれを薙ぎ倒す。すべて自分の声のはずなのに、奥底では誰か別の声が大声で叫んでいるような言い知れない苛立ち。甲板では、誰一人声を発していない。
「イシドロ」
 フアナの手が、イシドロの肩にふわりとふれた。
「──すまない」
 我にかえった青年の頬を一筋の汗が伝った。肩から手は離れ、聞かせてと言うように船員みなへと向けられ、イシドロの声を促した。
「骨の減少からもわかるように、何かが無くなっている。それを探るために、小舟を浮かべ、調査に人員を割く。できる限り速く指示を出すよう務める。……名乗り出るものはいるか」
 これまでを共にした船員だった。船長に命じられれば、了解アイ以外の言葉はなかった。だが、これまでを共にした船員だった。それはつまり、イシドロの扱い方を理解してきた船員でもあった。
「報酬次第だぜ、船長キャプテン
 誰かの声に、イシドロはくっと奥歯を噛み──
「……俺が、一週間の清掃を代わる」
 船上は食い入るように名乗り出るもので溢れかえった。

 選ばれた勇敢な三名が小型のソルトシップを船から下ろすと、イシドロは通信機を手渡した。それはかつて兄弟から託されたものの改良型で、通信可能な時間を大幅に伸ばしていた。電源を示す緑の小型ランプが点滅していることを確認すると、船員のうち一人がそれを胸に仕舞い込み、じゃあなと一声あげると飛び降りた。
 小型船はカタカタとおもちゃのような音をたてて進む。目視できる範囲に遠ざかると、イシドロが通信のボタンを押した。
「もう少し南下したあたりで、大型の骨が密集していたはずだ。確認してくれ」
「了解」
 通信音はいたって良好だった。心相原質の情報の渦の中で、イシドロは何度も仮説を立て続けた。いない。なくなった。塩漠の上から。骨を食す塩鱗獣? 一帯を風化させる局所的な天災? どれも違うと右腕の情報が叫び続けている。では何だ。イシドロは思った。こんなときに、少しでも同じものを見ることができる誰かが隣にいれば──……。
 ノイズ音が通信機に入り、イシドロは意識を戻した。
「船長、塩に流れがあるってのは変な話か?」
「なに?」
 操舵手を担うフアナが、瓶の中の水を飲み干し、舵輪にうちたてる。
 ──空瓶。
 イシドロが叫んだ。
「離れろ! 戻ってこい!」
 その時、赤子の揺り篭号の下でも同じように塩が流れていた。舵輪から伝わる感覚に何かの危機を見たフアナがイシドロを見た。
「取り舵いっぱい!」
 フアナは復唱し、船員は衝撃に備えた。イシドロは通信機になおも叫び続ける。
「なくなったのは上じゃない。下が空になった、、、、、、、んだ!」
 大きく左へと曲がる甲板で、マストにしがみつきながら、ティーチが「なるほど」と悪態づいた。
「戻れ! そこは、じきに落ちる!」
 通信機の向こうから、ノイズと聞きまごうほど大きな音がする。
 聞こえた者はみな、それが現実だとすぐに理解した。轟音は赤子の揺り篭号にも迫っていたからだ。
 塩が流れはじめる。崩落の中心へむかって。
 舵輪が回り、戻ろうとつよく軋む。フアナの顔がゆがみ、怒号をあげた。
「船にある重いものを捨てなさい! 船体をできるだけ軽く!」
「た、大砲は!」
「死んでも良いならとっておいたらいいわ!」
 船の上に、捨てろの声がさざめき立つ。イシドロは舷墻げんしょうにつかまった。心相原質を用い、砲列甲板の船壁に穴をあけていく。
 崩落の範囲が凄まじい速度で広がる。どれほどの、と思う規模の砂地獄の中へ、次から次へ、船の重要な資金が落とされてゆく。
「船首へ走れ!」
 イシドロが船に向けてまた叫ぶ。ティーチは下層甲板へ復唱して声をはりあげ、金網をあげる。落とし終わった船員が次々に、前へ、前へと、下からわきでてくる。
 徐々に速度を増していく赤子の揺り篭号が、崩落の円の縁に乗りあげた。
「落ちるんじゃないわよ!」
 勢いづいた船の前方が宙に浮く。ブリッジに向かって走った船員の体が浮き、マストロープにしがみついた船員がそれをとらえた。
 イシドロは振り向いた。船の後方、崩落の中心をみた。
 穴があった。白い塩の中、真っ黒な穴が、大量の塩を飲み込みながら広がる。
 穴が船体へ追いつこうと口をあける。塩がおちる。吸い込まれていく。
「応答しろ!」
 通信機から音はない。
 船が浮き沈みを繰り返して揺れた。赤子の揺り篭号は逃げ切った。膨大な崩落から。確かな代償を払って。
 崩落がややも遠ざかり、通信機が別の音を立てた。イシドロはすがるように通信機の傍受を入力したが、ロドスの通信圏内に入ったことを告げる音がしたのみだった。
 短く息を吐き出すと、ソーンズ、、、、は今こそロドスの手を借りようと送信のボタンを押す。
「こちらソーンズ。先ほど塩海支部近郊を通過したが、海へ入るには日数を要するだろう。しばらくは塩海に留まる。船員および俺の健康状態についてだが」
 今一度の「下からの」轟音。一帯に塩が巻き上がり、ソーンズを、船を覆う。ソーンズは塩煙に数度咳き込んだ。もう一度送信のボタンを押す。
 応答が、ない。穴が追いついた。
 

 そう。穴があいていたのだ。彼が来るまでは。
「なるほどね。それで、救助に行くにも周辺の再確認に行くにも物資不足だし、町々を回って物々交換してたってわけか。……思ったよりも大事だね、ブラザー」
 茶化すことなく、エリジウムはそういった。ソーンズは一度だけ頷いた。
「まあ任せてよ! このイケメンで頼りになりまくっちゃう君の兄弟が来たからには、絶対に損はさせないって約束するからさ!」
 茶化すことないつもりでエリジウムはそういって明るさを振りまいた。ソーンズは訝しげに見つめるばかりで、頷かなかった。──だが、最後に一度頷き、「ああ」と答えた。
 塩海に夜がおりた。
 双月が照らす塩たちは粒立って時折光り、空と地の境目をなくすように視界を小さな星で埋め尽くした。船長室は丸い窓から差し込む光だけでなく、電球によって現代的な夜を取り戻していた。かつてエリジウムも助手を務めた錬金台は未だ健在で、あの日からの道をソーンズが外れずに歩んでいる事実に少し微笑んだ。とはいえ、錬金台の上には雑多にものが転がって、整頓された様子は微塵もなかった。加えて目を凝らせば、奥にある寝台は、丈の低い机が無理やり接合されてできていたりする。そんな宝の山状態と化している部屋から、二人はラフィアスツールと樽を適当にひっぱりだし、向かい合って腰掛けていた。
「でもさ……やっぱり心相原質って、アーツみたいに、結構負荷かかっちゃう感じなの?」
 エリジウムがスツールを引きずって、樽に座るソーンズに近づいた。右腕を傷つけぬように指先で触れて確かめる。
「いや……、鉱石濃度のように、身体に直接負荷をかける類のアーツの使い方に比べれば、それほどは」
「え、あれ? そうなの?」
 意図がわからないと言いたげにソーンズはエリジウムの手に自分の腕をなげいれた。突然の無遠慮に少し驚きながら、ほら、と笑ってエリジウムは銀に照る腕を軽くたたいた。
「いやだってさ、君のその力があれば、今日もここに留まらないで、心相原質で探しに行くことだってできたんじゃないかな、って」
 船長室は黙っていた。勢いよく戻そうとした右腕が、掴み取られて制された。エリジウムが不満を告げる。
「ちょっと。僕はこれでも本気で君のこと心配したんだからな」
「……良いだろう」
 樽が引きずられ、彼らはまた一歩分近づいた。
「なんで自慢げなんだよ」
「一度しか言わない」
「良いだろう!」
 エリジウムが自慢げに胸をたたく。
「心相原質は、俺の情緒と深く結びついている」
「ふむ」
「俺が制御している状態にあるものは、切り離し、遠隔の情報を持ち帰ろうと試みるならば、常に冷静な状況にいることが求められる。俺が苛立てば、船の接着に使用した心相原質が不規則に飛び回るように、イレギュラーは情報観測に向いていないんだ」
「なるほど」
「俺が現状冷静にこいつを制御できなくなると判断したのは、あの崖下でお前の反応を見つけた時だ」
 
       
    
      
 副船長兼操舵手のフアナは、デッキで夜の風を浴びていた。
 赤子の揺り篭号は町を離れ、誰も追いつけぬ速さで夜の塩の中へと姿を溶け込ませた。その進路は当然ながら、崩落地帯だった。しかし夜の闇は穴の暗さに味方をする。明確な高度も位置も不明瞭なまま同じ場所へと船を傾けるのは愚かといえて、結局は崩落地帯周辺を少し離れ漂うにとどまっていた。
「なあ副船長、あいつ一体誰なんです?」
 一人の船員が、異常のなかった見張り台から梯子を降りて声をかける。数段分を残して甲板に着地すると、フアナのそばまで駆け上り、望遠鏡で隠し事をするように小声で話しかけた。
「リーベリだったし、裁判所と繋がってるとか?」
 フアナはすこし目を丸くしたものの、すぐに納得し、「この船にもまた色んな顔が増えたのねえ」と長く美しい体を伸ばした。耳の羽飾りを慈しむように揺らし、眼前の星々を見つめながら答える。
「滅多なこと言うものじゃないわ。彼はエリジウム。イシドロ船長の兄弟よ」
「兄弟?」
「重要なのは今同じ船に乗っているということ。そこに生まれた種族なんて関係ない。それに、エリジウム……あの子がいなかったら、この船だって今頃こんなに立派じゃなかったかもしれないわ」
 言いながらフアナは船の体を指で撫でた。補強を繰り返した壁が月を反射し、薄くあわく輝いている。船員は未だ怪訝さを隠さず、口は尖り、望遠鏡を伸ばしたり縮めたり、つまらない子どもが駄々をこねるみたいに、「でも」と反論した。
「急に来といて二人きりってのは怪しがって当然じゃないですか? あの穴におっこちた奴らのこと、船長が諦めたわけじゃないってのはわかってます。もう夜ですし、安否確認しに行くにゃ俺らが危険だってことも。でも、今日なんてやっと資材が揃ってきたとこですよ。なのにやるのがまずあいつの応対ってのは……。俺たちには話せないことでもあるんですか?」
 カチンと音を立てて望遠鏡を小さく閉じた。副船長は顔に苦笑を貼り付けて曖昧に濁した。
「それは、話せないというよりも──……」
 
「アッ…ハッハ──ソーンズ! …君さあ! ──アハハハ…!」

 突如ひびく笑い声。船内に電流が走ったようだった。送伝管を握っていたものは思わず勢いよく閉じ、耳を当てていたものは運悪くめまいを引いた。愚痴をこぼした船員も何事かとフアナの目を見た。彼女は呆れて首を横に振った。今度は愉快な笑みをうかべながら。
「聞かれたくない話なんでしょ。恥ずかしくって」
 
 
 

「それじゃあ……、はあ、疲れた。ええと、なんだっけ?」
「通信機の修理過程で、換えの効く部品と、操作の補助要員が必要なんだ」
 ソーンズはエリジウムの脛を軽く蹴った。大袈裟に脛を押さえて痛がっているうちにまたも笑いが込み上げ、慌てて口元を覆った。ソーンズが「次は本気で蹴る」と靴をもちあげたので、エリジウムは更にわたついてソーンズの肩を組む。
「そのくらいなら、簡単だね! ロドスにいた時と何も変わらないってことだ」
 いうなり、自らの肩にかかる重たい鞄を錬金台に投げあげた。ソーンズは「またこの量か」と肩をすくめたが、目元は懐かしさをたたえていた。ボタンを開け、ファスナーを引き、ケースを開き……玩具箱のような袋の、一体どこに何があるのか全てわかっているような手つきで、エリジウムはソーンズが必要としているものを取り出し広げ、ただでさえ混ぜこぜの机をさらに乱雑にしていった。
「さ、はじめちゃって。遠慮しないで、好きに使っていいからね。必要そうかなーってものはどんどん広げていくからさ」
 通信機。小型音楽プレーヤー。録音機、記録機……よくもまあこれだけ、と思いながら、ソーンズは作業台の前に立った。
 先ほどまであれほど騒がしかった船長室を、静けさがひたす。
 手を使う音。金属を開き取り出し戻し組み合わせる音が秒針となった。時々、「これは?」とか「ああ」と、それだけの相槌が互いの意思を疎通させていた。設計図も海図もない錬金台で、二人は同じものを見ていた。しばらくして、ソーンズが細かな部品たちの上で右腕を動かし始めると、エリジウムは席を立ち、折り畳んでいた旗を広げて調整をはじめた。靴のサイドジップをあけて、ドライバーを引き抜いて口に咥えた。はいりこんだ塩を小さなブラシで掃き出してから、順番に螺子の緩みを確認していく。電源、通電具合……ルーティンでもあるこの点検は実にあざやかな速さだった。「よし」とエリジウムが小声で呟くと同時に、最後のパネルが閉じられ、ドライバーは右手の中で二、三度回されてから再びブーツの中へと帰っていった。そうしてから彼はソーンズに声をかけた。
「お待たせ、終わったよ」
「こちらも終了した」
「どれどれ? 解説して」
 いまいちど二人は錬金台の前に隣り合う。旗を床板に突き立て、顎を乗せて船長の言葉を待った。
「受信範囲を少し広めることができた。こちらからの送信機能の異常は現状直すことは出来ずじまいだが……」
 点滅しているライトをソーンズが爪ではじいた。
「船員に持たせた通信機からの信号を傍受している。発信する者かがいなければ、この信号は送信できない」
「完璧じゃない! あとは見つけて助けるだけ!」
 握り拳があげられた。合図なく同じものが横からあげられる。それはトンと重なり、やさしい衝撃になると、二人は同時に手のひらを広げ、五本指をばたつかせた。ささやかな讃えあいも束の間におわり、ついぞ出番だと通信旗が駆動音をあげた。
「アーツの使用は無理をするなよ」
「当然」
「俺には心相原質がある。ある程度の周囲の情報を読み取れはするが、正確に自分の感覚として解釈するには、未だに慣れない部分が多くてな」
「それで僕のアーツが最適なんて、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。同じ耳を持てる人間に慣れて光栄だよブラザー。それじゃ、善は急げっていうことだし、はやくはじめようか」
 張り切って笑うエリジウムに、ソーンズも「ああ」と答えた。
 ──一度だけ、両目頭と、額を押さえて。
 エリジウムは、喉まで出た言葉を押さえつけるように飲みこんで、変わらない笑顔と早口を振りまいた。悟られないように。
「……ねえ! やっぱり少し話そうよ。僕もアーツを使う前に気合いを入れておきたいんだよね。ほら、ここに来るまでとんでもない旅だったのは僕だって同じじゃない? あーいやいや、休憩したいってわけじゃないよ? もちろんね。あくまでもちょっとだけ、世間話みたいなのをして、集中モードに頭を切り替えるってことさ」
 ソーンズは黙る。謝罪も感謝もないが、互いにそれで納得していた。
「実はさ。僕、ちょうど都合よく君を助けに来れたみたいだけど、本当はブラザーに贈り物をするためにここまできたんだよ」
「贈り物?」
「あーダメダメ! 全部終わったら、帰る前にプレゼントするからね」
 大袈裟に両手を振って、口の前でバツをしてみせる。
 睡眠不足が響いている。ソーンズはそう思った。見抜かれたと口にこそしなかったが、事実はそうだ。キンとまた顳顬こめかみにするどく痛みが駆けて消えた。完全にいなくなるのを少し待って、観念したように絞り出した。
「怒ってはいないのか」
 通信旗の中でモーターが回っている。それ以外聞こえなかった。
「はあ」と相手は声を上擦らせた。「何を?」
「俺はお前に、別れの挨拶さえしなかった」
「うん」エリジウムは続ける。「それで?」
 痛むのは、頭だろうか。後頭部で余波を感じている気がした。それは記憶だ。受け取った物は塵の山から贈り物だらけの旅立ちの鞄に変わっていた。確かに沸き起こる日々の記憶。どきりと口が渇くのは、痛みだろうか。五感を研ごうと閉じゆくソーンズの瞼を、エリジウムが大きなため息がひらかせた。
「君は僕に──、折角再会できたこの僕に、さようならって言えって叱ってほしいのかい?」
「そ、れ、に」の声に合わせ、石突いしづきが不満そうに床をうった。
「それにだよブラザー! もしも僕たち、あの頃に、あのコンキスタ号の華麗な船出に戻れたとして。……君は僕に、さようならって言うつもりなの?」またため息。
「僕は心相原質なんて便利なもの、もってないし、ブラザーみたいにそれを操ったり征服したりするちからだってないけど。君の、言えなかったことは──……、言いたかったことは、確かに分かってるって、わかるよ」
 エリジウムはソーンズの右腕をひっぱり上げた。
「僕の言いたいこと、分かる?」
 エリジウムには理解できていた。
「ソーンズ。僕は君が分かるよ」
 返事はなかった。その言葉を最後に、ソーンズは笑みを浮かべて右腕の手のひらを開いた。銀の糸は、エリジウムを明確な意思のもとで避け、周囲へと広がっていく。
 エリジウムも何も言わずに手をはなし、目を閉じる。全ての髪のいっぽん全てに神経を通すように、聴覚を押し広げる。アーツに呼応するように旗の駆動部が音をたて、光りを強くした。振動で旗の生地がゆっくりと開き、ゆびをさすように角が窓へとのびた。
 心相原質が外の景色を数値で伝えてくる。心相原質の使い手にとって、これらの情報は色づく景色とさして変わらない。船長室の壁の向こう、晴れた塩漠の夜空が深くわかった。目の前にいるアーツを使う男も、まるで今夜の星のようだとソーンズは思った。どこへいても、同じ形で光るのだろう。
 のびた糸は砂の上を走る。穴へと迫り、その全長を無数の反射で確認する。塩の下。質の異なる地層。何かが跳ねる音。水。空洞。空間。
「ブラザー」
 二人は目を合わせた。きっと同じものを見て、、いる。
「広めの場所に響いているからかな。弱いけど、通信機の音がする。君が持たせたやつじゃないかな」
 ソーンズは強く頷いた。
 赤子の揺り篭号は朝を待ち、穴の底へと人員を割く。船員は誰がゆくと皆顔を見回しあった。ソーンズが「俺がいく」と簡潔に答える。ティーチが反論に出ようとした時、「もちろん僕もね」とウインクを交えてエリジウムが答えた。あの船員もそれには驚き、「正気か」と聞いた。「なんでそこまで」と。
「ま、僕はこいつの、兄弟だからね!」
 その船員はそこでフアナと目を合わせていたので、そののちに続く鬱陶しいおしゃべりは耳にしておらず、幸いにしてエリジウムの株が落ちることはなかった。エリジウムを見知っているものは、そうだったと今し方えた感動を思い直すのだった。