「それじゃあ、私はもう少し妹たちと話をしにいくわね」
横を歩くシュウがそういった。ホーシェンの右耳が断続的にはねて、鈴のような音がなった。金具は外れることはなく、快活な「分かりました」という声にとけてゆく。稲穂のように細く長くゆわえられた髪が、尾のようにゆれて、ロドス艦内に薫風を招いていた。
大荒城は、農業地だ。農業とは、テクノロジーの集結だとホーシェンは自負していた。人がいきてゆくために逃げられない場所であり、砦でもあると思っている。彼のまばゆい意思に変わりこそないものの、どうしてなかなか面白いと、彼の首は興味深そうに辺りを見回している。となりの龍が思わず笑みをこぼし、ホーシェンはやっと浮ついた心に気がついた。
「シャオマンは、言わなくても好きに艦内を見て回っているようだけど、あなたもそうしても良いのよ。誰か使いを呼んでもいいと、この舟の指揮官は仰っていたわ。それとも、私と一緒にくる?」
「まだ、どこがどこかも分かりませんし。途中まではご一緒します」
水と土を絵にかいたような彼女の髪は広大な大地のようにゆれ、「そう」と笑いながら艦内を迷いなくすすんだ。
ややもして、少し大きめの扉が、二人を出迎える。きっと、自分ではない。彼女が目立つのだ。幾多の視線に耐えかね、「ここは?」と尋ねたが、答えはまたずとも訪れた。たくさんの机に椅子、おおきく近代的な水場、冷凍、冷蔵のための保管庫——食堂だろう。口にものを運ぶ人びとの多さにも気圧されたが、ホーシェンが息を呑んだのは、その料理の多様さでもあった。食は人を作る。人の体というものは、自分が今まで得たものでしか維持することができない。食の記憶は人の記憶だ。土地に根付くもの、そこに棲むすべての命の記録でもある。自分の送り出す米や麦、高菜がどのような姿に変わるのか、どんな記憶に織り込まれていくのか。眼前にあるものは、あの大荒城のそよ吹く田畑からだけでは、きっと見ることのできなかった光景なのだろう。
「こら、ニェン」
「げえ。シュウ姉」
すでに真紅と染まる火鍋を前に、さらに香辛料の壺をひっくり返さんとしている白紅の龍が、シュウに嗜められている。横でさらになにがしか揉めているような女性もおり、あれが姉妹か、とホーシェンは漠然と思った。
意外なことに、シュウの妹たちに対する顔色ひとつとっても、ホーシェンは「はじめてみる」とは思わなかった。それはきっとシュウにとって、どれもが当たり前のことで、田畑で向けられていた思いや言葉に、裏表はなかったことの証明なのだろう。手のひらから力が抜けていくのを感じた。
「では先生、僕は失礼します」
「ええ。しばらくはロドスに滞在するつもりよ。どうかシャオホーも、万頃としての生活を楽しんで」
「はい」
彼女の声は、ひどく穏やかだった。いつもと何もかわらぬまま。
◼︎
「もしかして、今日の調理場担当はシュウなのですか」
食堂をでたホーシェンは、真っ先にかけられたその声が、自分に向けられたものかと疑うこともなかった。聞いたことがある声だったからだ。振り向けば、どこか居た堪れぬこどもの顔をして、ズオ・ラウが立っていた。
「驚いた」
「申し訳ありません。驚かせようと思っていました」
言いしなに首をかいた。その仕草が言葉をさがしている風に見えたので、ホーシェンは少しふしぎに思った。ああ、もしかして、と、彼も彼で事情を思い出してズオに問う。
「僕たちが大荒城に帰還する時には護衛がつくとは聞いていましたが」
「そうですね。滞りなければ」
頷きながら、どこへかしらず、ズオの足が動いた。この国のような舟のなか、目的の場所があるわけでもなかったので、ホーシェンの足は先達にならった。もはやシュウと歩いた道も定かでないが、こんなに食堂へとつづく直線の廊下は長かったろうかと思いながら。
「先生が調理担当になるかは僕にも分かりません」
「そうですか」
ホーシェンはその返事を憎らしく思った。会話が途切れた。土ではない、鉄筋を踏み締める靴音が響いている。
「……大荒城での食事は、どれも格別でしたから」
「……そうですか」
次はズオが唇を噛む番だった。また途切れた。行き場のない手が、汗ばんだまま刀の柄に添えられている。
直線の廊下は終わりを告げ、交差点が彼らを出迎えた。
「それで、君は何をしにいくんです? 僕を驚かせることだけが目的だったのですか」
十字路はやや幅広く、艦内の案内図や、足を休ませるベンチのようなものも置かれているようだった。
「実は、迷っています」
「……広いですからね」
みたらいいだろ、と言いたげにホーシェンが地図を指差す。ズオは、慌てた様子でその指を下げさせた。「そうではなく」と弁明する彼の耳先はどこか染まっているように見えたが、艦内は十分に明るいといえなかったので、ホーシェンは何を思うこともなかった。
「友人に何と声をかけるべきか迷っているんです」
「ご友人への接し方ということですか?」
「……そうです。久しぶりに会えたので、せっかくなら、ゆっくり話しながら、ここで僕が見たものを教えたり、ここに来るまで聞いたことや、もっとずっとどうでもいいことについて話したりしたいのですが」
彼は一息に言い切った。
いわれホーシェンの脳裏に浮かんだのは、あの大荒城での彼の姿だった。ただ慣れぬ水田に足をとられ、腰をまげ、シャオマンに指をさされ、共に釜の飯を食らった彼は、——自分よりずっと、ロドスに馴染んでいるように映ったからだ。合点がいったようにホーシェンは足元に息を吐く。流れることなく澱んだ空気が落ちるより先に、呆れた態度で手を振ってみせた。
「それなら、僕よりシャオマンを真似た方がいいのでは? 彼女の活発さは君も大荒城でよく見てきたはずでしょう」
「ええと」
「とはいっても、僕もシャオマンがいまどこにいるのかは知らないんですが…」
そもそも、今どこにいるのだろう。ホーシェンはやっと地図の存在を思い出した。
歩んだ矢先。
「では」
腕が掴まれる。
「まだなにか」
ホーシェンは目を丸くした。
あのとき声をあらげて呼び止めたのは、そういえば自分だった。
「一緒に、ロドスを見て回りませんか、シャオホー……」
それは郷愁とよんでも良いのだろうか。複雑な心地だった。ただただ、払いのけるのは違う気がして、かといって、大荒城でそうだったように、しかめつらで出迎えるのも違う気がした。さっさと間を持たず返答すればよいのに、どのくらいかそのまま、彼らはそうしていた。ついに耐えかねたのか、先に笑ったのはフォルテの方で——
「万頃と呼んでください」
