給湯器が蒸気を吹き上げる音が響いている。普段なら、医務室には講義を逃れたい生徒が幾人か集まっているのだが、今日はそうもいかなかった。
第五寮にいた人間はひとり残らずひっくりかえった。私は落ちてくる瓦礫や衝撃も翻すことができる自信があったが、全員がとなるとそうはいかぬ。実際、あの時私は寮をなんとかすることしか頭になかったから、今このざまとなって、寮弟を労っている。他の生徒はもう少し広いところで多数の人間から手当を受けていた。その中でもかなり「派手に」傷を負った方であったアシェルは、優先的に医務室でひとしきりの処置が行われた。私は廊下で待っていたのだが、何しろ怪我人の多い事件だった。医務室の教員は、私に簡単な作業を託し足早に去っていったのだ。
そういえば、一度たりともこの子にうまく包帯を巻けた試しがなかった。あんなに手解きをうけたというのになんたることか。己にやるのと、この若枝にやるのとでは勝手が違うのだろう。期待と願いを込めてガーゼをゆっくりとあてた。消毒液がしみた一瞬、体がはねる。確認のために顔をみやると、少し恥じていた。そんなことをこの部屋で気にするものなどいない。
「痛かった?」
「いいえ」
私は君くらいの時、とても痛かったよ、とは言えなかった。
「エヴァンス先輩」
巻き終えた布を鋏で切り落とす。
重なる鉄の音はとがっていて、アシェルの呼びかけによく似ていた。声色を努めてやわらかく変えながら、器具を片していく。刃こぼれしないよう、そうっとしまって蓋をした。
「どうして僕を選んだんですか」
給湯器が静かになった。もう紛れ込ませる音はどこにもない。
私がアシェルに望んでいたことは、まさにいまのような状況にある。
私は、アシェルのように「どうして」と問うことを、諦めてしまった。
兄が私と走り回らなかった理由。
兄が私と下車しない理由。
兄が口を開かない理由。
兄が私を見る眼差しが、こんなにも私にとって痛い理由。
すべて、もはやあったのか定かでない記憶のもやへと追いやった。そうして、音もせぬように、まるで初めからなにもなかったかのように蓋をした。
「紅茶を淹れようか」
「はぐらかさないでください」
「お供がいると言っているだけだよ」
医務室の菓子棚を物色する。イングランドには、どんな部屋にも茶葉があると実しやかに囁かれているが、あながち間違いではないのかもしれない。美しく装飾された銀色のスチール缶がこれ見よがしに置いてある。こじあければアールグレイの香りがほのかに宙を舞った。ミルクもシュガーもないが、きっとアシェルは飲めるだろう。いや、飲むだろう。
興醒めすることにティーカップはなく、無愛想なマグがふたつあるだけだ。このくらいで良いと思った。痛々しい片腕を固定しながらも、出されたままに香りたつカップを受け取って、アシェルはゆっくりと口に運んだ。
「おいしいです」
「アシェルのミルクティには負けるね」
「……それは、ありがとうございます」
私も続いて乾いた口にアールグレイをいれた。寒々しい季節と事件に慣れきった体が、湯に溶かされてくだけていく。
「私が、君を寮弟に指名したのは」
初めて「失った」と思ったのは、おそらく兄が廃嫡されたときだった。私はまだ幼くて、兄も私と同じように幼いのだと思い込んでいた。
ただ、どこかでそれを理解できている自分もいた。
兄はバルコニーで転んだりしなかったし、兄は車のドアを自分では開けなかった。
私は兄にいつもこう言っていた。分からないよと。
「君に、私のようになってほしくなかったからだ」
「……先輩の真似をしてはいけない、という、あの話ですか?」
「本当によく話を聞いているな」
「先輩」
「茶化していない」
眉をひそめたアシェルの顔に、礼拝堂での姿を重ねた。
「才能ある兄をもつ、というのは、苦しいことだよね」
回る茶葉を目で追うように、言葉を探しながら、慎重に会話を続けていく。
アシェルの視線は棘のようだった。言われたくないことを言っていることには気づいていた。
「それでも、……兄も、同じように孤独になるらしいんだ」
「あの手紙」は、私に向けられたものではない。ジェームズが真実孤独を分かち合いたかったのは、私という兄弟ではなく、ラプローヴという友だったはずだ。
それでも私が、彼には孤独があったと断じられるのは、私にも、同じ孤独があるからだ。
アシェルでは、ラプローヴやデルキスタといった後輩や寮友でも、級友でも埋められぬ孤独があるからだ。
「それは、エヴァンス先輩のお兄さんの話ですか」
「我々のお兄さん、というのが正しいかな」
「僕には、そんな風にはみえないけど」
「失ってから後悔してもいいのか。トーマス兄弟のように」
「——それは、」
「ずるい言い方をしたね」
この孤独は、誰も責めない。それが私を責めた。
私が悪かったのかと自問しながら、永遠に解の出ない怒りを抱えていくことを、アシェルにして欲しくなかった。これはあまりにも傲慢なわたしの祈りであり、願いであった。私はアシェルに託そうとしているのだ。
兄弟とはそんなに大事なものだろうか。家族とはそんなに重要なつながりだろうか。私はかつてそう吐いた。その思いが変わったとは思わない。それでも、なぜか胸を巣食う喪失が、確かにあった兄弟のことを訴えている。私は許せない。これを、目の前の「弟」にも背負わせたくはなかった。
「どうかお兄さんを諦めないでいてほしい」
「どうしてエヴァンス先輩がそこまで」
「私には」
ろうそくの火が、紅茶のけむりとなって、揺れる。
「私には、できなかったから——……」
ひといきで飲み込んだ紅茶が体の中を冷たく駆け巡っていく。紅茶缶に蓋をする。私の記憶は再び閉じられる。続かなくなってしまったアシェルとの会話を捨てるように、私はエヴァンスの家で行われる葬儀について彼に話しはじめた。
