長細く広すぎる車が止まる。扉を開けるのは私の仕事ではないから、頬杖をついて待っている。子供の頃、じっと座ったままの兄を降ろしてやるのだと、ドアハンドルに手をかけたことがある。兄は笑いながらも、降りようとはしなかった。その顔が苦手だった。兄のことが何一つわからないまま、大きくなってしまった。
 抑揚のない見送りの言葉だけが背にのしかかる。何度聞いても好きになれない。きっと慣れる日がくると、実家に帰る度言い聞かせてきた。
 学内に帰還して、ようやく腹の深くまで息を吸えた。サイプレスハウスは依然としてさかさまになっており、私は目当ての人物を見つけるべく意気込んでいたのだが、案外あっけなく探し人は目前に現れた。
「ああ、ちょうど良かった。探していたんだ」
 なにやら紙袋を下げて、ラプローヴ・クィントンが歩いている。腰ほどまである結えた長い髪は冬の雲によく映えた。声をかければ、瞳孔すら動かぬ会釈が返ってくる。
「出かけていたのか」
「──ええ。少しばかり、街の方に」
 手元を向くと、視界の端で美麗な顔が小さく頷いていた。どうやら、私が彼を見ている時、彼もまた私を見ているらしい。メルゴーの制服の上から、コートを羽織っていたものだから、きっと私が何処かへ出ていたこともわかっているのだろう。関する言葉は何も出ぬまま、「ところで」とラプローヴが私に問いかけた。
「ぼくを探していた、とは」
 曖昧に相槌をうちながら視線を戻した。
「手紙と、葬儀の件で」

 本題を提起する。語りかける順序を探していると、指が顎へと吸いつく。
 私が本家へと赴いたのは、誰に隠すまでもなく、死んだ人間の後始末のためだった。

 兄の部屋がどんな姿をしていたのか、もう思い出せない。
 私が双子の敷地へと足を踏み入れた時、そこにあったのは分別が済んだモノの山だけだったからだ。書籍、日用品、嗜好品と振り分けられたその隅のすみに、私たちの話題はあった。名付けるのなら、「分別できぬモノ」のレッテルだ。家族の中で、兄だけが独りだった。もっと正確に言うのなら、私も同じように独りだったが。そんなだったから、誰も兄の私物をどうしていいのか答えられないでいた。特にそれが——彼の交友関係を示すもの、とあっては。
「出てきたんだ。その、君の手紙が。兄の部屋から」
 ラプローヴの様子は予想に反して淡々としており、合点がいくと言わんばかりの声色で「そうですか」と答えた。

「どうしようか。一緒に燃やしてしまってかまわないかな、兄と一緒に」
「──あぁ、成程」
「君にその確認をしたかったから、今、日取りを延ばしている。決めたら教えてくれ」
 そう依頼すると、彼は「わざわざ」と言って編んだ髪に触れた。それから程なくして、「いえ」とか、「でも」と言葉を重ね、ぴたりと手を止めて答える。
「そうですね。既にぼくの手を離れたものです、そうして貰えるなら──きっとその方が良いのでしょう」
 ひとつ頷くと、細長い頭の上でもひとつ頷いた。ガウンが重たそうにはためいている。開きっぱなしのキングスカラーの口が、躊躇いがちに紡いでいく。
「ですが、それなら……もう一通、これから増やしても構いませんか」
 もうひとつ頷く。
「分かった。一緒に燃やすよ」
 加えてあともう一つだけ、私の頭には考え続けていたことがあった。
「代わりに、君も葬儀に出てくれないか」
「……ぼくが、ですか?」
 面食らったといった表情でラプローヴは尋ねる。幾度となくあの事件を共に捜査する中でその目を見てきた気がしていたが、いまだ私の中ではその表情こそ物珍しいものだった。
 だが、本件においては驚くのも無理もないと思った。加えて、これこそが私が思案していたことでもある。
「君も知っての通りだが、私の兄は親交ある人が殆ど居なくてね。その中で、兄の友人だった君が来てくれるならば、と思うのは何らおかしくないだろう」
 ラプローブは黙って聞いていた。
 私の発言には嘘はなかった。しかしながら、唾棄すべきことに、全てが善意であるというのであれば、私は彼に嘘をついていた。
 エヴァンスの家は、デヴォンの土地と人間を維持するために、ホテルの事業と金融を大きく動かす子爵階級である。イングランドにおいて、階級の継承とは潔白でなくてはならない。兄の「廃嫡」がきまった時、少なからず本家の屋敷が揺れ動いたのを、子供ながらに覚えている。
 当家から廃嫡された息子が人生を疎み、次期当主弟が通う寄宿学校から飛び降りた貴族がある。この「誤解」が流布されることだけは、エヴァンスは——私は絶対に避けたかったのだ。
 それは、背にのしかかる「いってらっしゃいませ」に応えたいからなのだろうか。
 それとも、私が真っ白なままあの吐き気のする椅子に座りたいからなのだろうか。
「──そう、あなたが言うのなら。ええ、謹んで、このお話受けさせて貰います」
 静かな憂いが私の鼓膜を震わせた。彼の瞳を冷たいと思ったことはなかった。彼の気持ちが少しだけわかるからだろうか。いつかも思い出せないいつかの日、バルコニーから私を見下ろした、ひだまりのような兄さんの両の目の方が、私にとってはずっと冷淡で、もっとずっと痛かった。
 ラプローヴの細えだにひっかかる紙袋が揺れた。衣擦れの音とともに、「この後、少し付き合って頂けませんか」と彼は提案した。私にはずっと見えていた。袋からのぞく赤いカメリアの花が。

 長い足が一歩一歩とあの場所に近づくたびに、背中をひっつかまれている気になった。兄が私を指差している。まるでおまえが殺したと言われているように。その度に、胸の内を決意めいたものが燃えていた。
 今にもぐしゃりと自分が潰れるような錯覚とともに、両足がようやくたどり着く。ラプローヴはこともなげに紙袋からカメリアをとりだし、土のもとへそえた。
 花などない。兄の遺物を整理しに行ったと言うのにこれだ。私は、彼のことをどうしてやりたいのだろうか。
「これでいいか」
 ポケットから白いハンカチをとりだし、彼に倣って据えた。艶めく白地にきめ細やかなバラの刺繍が光っている。
 わかっていた。私もラプローヴも、彼のことを過去のものにしようとしているのだ。正しく己で立つために。少なくとも私にとってはそうだった。冷えた風が不意に吹き抜け、木々の葉を揺らす音だけがさやさやと響いた。
「お付き合いくださって、ありがとうございます」
 伏せられた睫毛が開けて彼は言った。まるで決別の言葉のように私には聞こえた。「いいんだ」とか「構わないよ」とか言って、寒さにかじかむ指を慰めた気がする。立ち上がって寮へと歩みを進めた時、背にはなにもいなかった。初めから何もいなかったのだろう。
「このくらいしかできない」
 あなたは私の胸の中で炎のように輝く。
 おまえを一生理解できないまま、生きながらえてやる。わからないことを抱えていくのが案外得意だと理解できたのは、皮肉にもおまえが発端の事件だった。