バッハの旋律を夜に聴いたせいです。

 冬の海風が狭がりに入り込もうとして軋むこの部屋に、チェロの音が響いている。
 今日は兄の葬儀の日だった。

 かねてから頼み込んでいたこともあり、後輩であり、友人でもあるラプローヴがひとつの椅子を埋めにきてくれていた。兄に他に親しいものなどいるわけもなく、生前世話になっていた使用人が、ちらほらと参列していたくらいだった。これ見よがしに、白いハンカチを目元に当てて。心は随分と凪いだもので、それを白々しいと思うこともなかった。燃えかすになったならば何か変わるのだろうかと、私は涙を待ったが、目元は乾き切っていた。遺灰は庭にまいた。我が城からはいつだって海が見える。兄と見ていた同じ景色は、それくらいしか知らない。

 もともと、サマセットへ戻るのは明日を予定していた。学生と跡取りのあいのこであるこの体は、今すぐにでもこの家を抜け出し自分の部屋へと帰りたかったが、父母や来賓は当てにならないのだからそうもいかない。もっといえば、家にはできる限り「借り」を作りたくはなかった。ラプローヴには申し訳ないと思いつつ、誰も使っていない部屋などいくらでもあるからと、今夜は泊まってもらうことにしていたのだ。すべて本当のことだ。(寮弟を招く時には、このいいわけは使うまいと胸においた)
 葬儀も終わり、客室へ彼を案内したあと、まっすぐに私は自室に身をうずめた。ぴしゃりと扉を閉じるまで、ラプローヴには何の変化もないように思えた。そんなだったから、もう合切を考えるのはやめにして、羽毛だらけのキルトをかぶり、入眠をきめこんだはずだったのだ。良かった。彼の兄への寂寞は、きっとあのアコレードと共に消えたのだ、あるいは彼の中に昇華されたのだと信じて。

 ところが午前1時も半ばを回る頃、私の両眼はひどく冴えていた。
 
 マットレスを跳ねさせながら、苛立ちに任せて飛び上がる。カーテンを開けてみるものの、小波が浜辺に身を寄せあうさまが、星あかりによってちいさく見えるばかりで、ちいとも時が経つ気がしなかった。
 ため息を溢し、部屋の中を散策する。だが私の部屋には物が全くと言って良いほど存在しないのだ。ほとんど使わないコンピュータ、埃をまとういくつかのトロフィー、沈む機会のない来客椅子、ただ使用人の仕事のためだけにある観葉植物。与えられた展示品の中で、唯一自分で使う物といえば、蓄音機くらいのものだった。値段がどうの価値がなんだと、父から聞いた気がしないでもないが、なにせ興味がなかった。これはいつだったかのクリスマスの贈り物だ。本当にこの親は私たちのことを知らないのだと理解できたことを覚えている。針を刺せば、尖った旋律が耳を刺した。チェロのメロディが鼓膜を震わせる。どこか心悲しい。私はそれを、存外気に入っていた。
 もう一度カーテンに手を伸ばす。高い夜空に、月が見えている。

 眠れない理由に、大方の見当はついていた。気がかりなことがあったからだ。
 この部屋から、いくつか壁を隔てた先にいる彼に対してだ。
 巣食う靄は這いずり回る蜘蛛になって、私の安心を食い潰していく。蓄音機の音をあげ、壁を痺れさせ、耳に不安が忍び込まぬように努めて、やがて、結局、部屋をでた。

* * *

 夜の空気は思っていたより痛くはなくて、なびくラプローヴの髪が銀に光ってきれいだなと思えた。
 だが、いくつかの景色が蘇ってはなれない夜でもあった。 
 兄の鮮血がガラス玉の向こうにはじけた時、私はそれなりに(かなりだろうか)動揺した。
「あなたにとっては」
 ラプローヴは、それ以上追求せず、微動だにもしていなかった。そのうち、「いえ」と言ってまたいつもと同じふせがちの目をはためかせた。言葉を選ぶような、つっかえたものを飲み込んだ仕草がやけに珍しく思えて、私は思わず問うた。
「君にとっては?」
「——覚えていますよ、よく」
 視線で、あなたは、と聞き返されている。忘れるはずがないだろうと思った。
「私は、なぜあれを選んだのかが一番知りたかった」
「あれ?」
「結局、自殺なのか他殺なのか、分からず終いだった」
 繋がらない。ラプローヴの表情が言った。繋がるだろ。私の胸の内はそう反論していた。でも言わなかった。月が明るかった。
「答えがわかるものがいない以上、なにを推察したところで、願望でしかない」
「そうだね、だからしんどいのかもしれないね」
 ラプローヴの声は、半ば落とされたひとりごとのようで、私に投げる気はなかったのだろう。だが、そうやって放りなげられたものに目を背けたからこうなったのだと、ガラス玉の向こうの兄から言われているようで、私は最後には君を向いたよと、あの手紙から言われたようで、ささくれを捲られるような気持ちになりながらむりくりにでも答えたのだった。
「自分であれをえらんだのなら、やっぱり嫌いと言ってしまってもよかったのかもな」
 彼を真似て波を寄せるように自分の意思を放り投げた。拾われる期待はよせぬまま。
 あぶくがはじけるように、ラプローヴはしずかにいう。
「それが彼に選べていたのなら、もっととうに」
 厭な予感に、横目で盗み見た。相変わらず彫刻品のままだった。視線が噛み合う。
「いえ。これも結局は僕の推察でしかありませんね」
「どういうこと。——分かりやすく言ってくれないと、わからないよ」
 逡巡。重いものをもちあげるか迷う、子供のような目。きっと今、かたちはちがっても、同じ意味の顔をしていると思った。
「そういう手段が、あったのなら。あの時、あのタイミングでもなく、もっと早くそうしていたんじゃないかと」
 チェロの音が耳鳴りのように反芻する。これだ。私は気がかりなのだ。
「それは」
「はい」
「兄の気持ちがわかるから。私のことを慮って言っているから」
「僕が、その立場だったら、そう考える。——そういうところでしょうか」
 澄み切った晩、自分からラプローヴを起こしたというのに、いざ外にでてみれば、私は逃げてばかりだ。そうやって断りきれない後輩を引き連れて、暗がりの中にひそむなにかの手を、彼が掴まないようにしていたのかもしれない。
「そう」

 海へと戻っていく。
 

* * *

「他には。なにも聞かないの」

 デヴォンの砂浜はうつくしい。海岸線はまっすぐに伸び、海蝕洞を伴った岩肌がいくつも連なっている。散りぢりになった流木の切れ端を拾い上げては海へと放り投げた。彼の隣にただ黙って立っていると、なぜだか心が波立つからだ。
 ラプローヴは、さあ、やら、どうでしょう、やら、濁った返事をよこしたが、そのうち文字が浮かんできたのか、髪を梳く手を止めて向き直ると、いくつかきざみがちに頷いた。それは細波のようだった。よわく、穏やかで、きめ細やかな泡を伴って、なにも奪わない。切れぎれの木片ですらも。海と陸とは大差がないというみたいに。
「彼のことを、ジェームズのことをどう思っているか。あなたは、そう口にしませんので」
 ジェームズみたいに。
 他愛ない将来の簡単な設計図は、私たちにとってはあまりにも夢物語で、単なる約束事よりもずっと脆い。私が口にした理想論は、誰のために吐かれたものだったのか。
 私を、とおりぬけていく波。私は連れ去られることもなく、興味をもたれることもなく、ただの通過点にあったものとして、そこに残る。水より重たい流木とおなじだ。彼らは波だ。泡たってなんどもこちらへ打ち寄せるくせに、掠めるだけで何も奪わない。私たちは運ばれ、ふりまわされ、研磨され、おいてゆかれる。
「愛していたよ、ほんとうに」
 これ以上体を冷やしたってどうしようもないから、私たちは帰路へついた。靴跡はふたつずつ増えていき、少しずつ消えていく。クロテッドクリームが口の中に残っていてだるかった。彼が何か、言葉を選んでいたことも、錨のようだった。重荷を下ろして、最後まで聞くことを選んでいたら、私はきっと彼をいかせてしまうと思った。
 兄のことを話すのが怖い。同じようになるなと言いたかった。
 自死を選ぶのは決して賢いことではないと、私の道理で言って説き伏せられたらよかった。だがきっと無駄だ。彼の瞳は私の瞳の形をしていない。捨てられない錘を、どうにか彼にとりつけておきたかった。
 どうしたってラプローヴと兄が重なってしまうから。
 彼のことも、兄のことも、嫌いだと、言えたらよかった。言えるようになりたかった。
 言えなかったのは、嫌いだと、言いたくなかったからだ。

 認めたくない。
 それでも愛していたから。本当に。

* * *

「それで、供養はできたかな」
「ええ、十分すぎるほどに」
 城門前の荊棘が揺れている。冬越しまえのグラジオラスの苗は斜めにたっていて、まただ、と思い出す。
「これからも、よろしく頼むよ、私の騎士の友達さん」
 少なくとも、あと一年は、私という重圧を背負ってもらおう。
 新しい荷物が彼の背中に乗る日を見届けたら、去るも来るも好きにしたら良いのだ。
 今日ではないらしい。彼がすべてを諦めるのは。
「もの好きですね、あなたも」
 自分が面倒なものである自覚は、どうやら芽生えてきたようなのだし。

ガラテヤ人への手紙
第六章
四節 まず各々が己が行いを試しみるべきである。さすれば、誇れるところは他にあらず、ただ己にあるを識るだろう。
五節 各々、己が荷を背負うべきなれば。