炭酸のぬけた飲み物は、どうも味の違いがわからない。そもそも、最初からないのだから、ぬけたという表現は間違いだ。しかしぬけたものとないものの判別つかぬほどだいう話で──つまるところこの舌は役立たずなのだ。そうはいっても、齢十八というのは不思議と特別を感じやすい歳だと思う。良し悪しは分からなくとも、口触りのよくないアルコールを、なぜだか歓迎している。これは背徳感のなせるものなのか、同じ時間を共にするものがいるおかげなのか、定かではない。だが、この浮き足をおもえる心は、決して役立たずなどではない。空になった私のグラスに、アーノルドは「うまいじゃないか」といいながらシュナン・ブラン(白ワイン)を注いだ。
私が選んだわけではないのだから、当然だ。
◇
じいやが選んだのは、二〇一〇年のコトー・デュ・レイヨンという白ワインだった。
乳母役というのは幼い頃のどうだっていいことを本当によく覚えている。何がきっかけだったのかもう忘れてしまったが、あの日私はじいやにこっぴどくしかられ、部屋から出て行く気がほとほと消え失せていた。ベッドに沈んでは悪態をつき寝返りをうった。うつ伏せと仰向けを繰り返していたはずなのに、気がせいている時にかぎって、何故だか秒針は進まないものだ。いつまでたってもやってこない夕食の合図に私は耐えきれなくなった。そこへ、見かねた双子の兄が私の部屋にやってきて、こう助言した。「ぼくが今だけジャックになってあげる」と。私はこれ幸いとじいやのもとへ駆け出して、じいやにアーモンドナッツをせがんだ。じいやは優しく笑っていった。「おや、ジェームズさま、先ほどのアーモンドでは足りませんでしたか?」
──コトー・デュ・レイヨンは、焼かれた林檎の酸味高い香りのあとに、香ばしいナッツの香りを思い起こさせる。酒を交わせるご友人ができた時には、必ずこちらを差し上げようと決めていました──とは、彼の談だ。ご丁寧に年数も揃えてある。私は思わず苦笑した。
◇
「そういえばさ、その、聞いても良いものか? うしろにいたやつについては」
アーノルドが、わざとらしく音を立ててワインボトルをテーブルに置いた。補佐役は気まずそうに視線を逸らし、フィリップスの方に話しかけようとしていた。気が回りすぎるのは大概損だ、と思いながら少し笑った。
「この二人は知ってるのか」
「さあ、どうだろう。でも、二人とも知られて困る友達じゃないから、いいよ。なんでも聞いて」
「そうか、じゃあ遠慮なく。そいつは結局誰なんだ? ジャックと同じ顔してる」
「実は、そうだな。彼は私の双子の兄なんだ。名前を当てられたらすごい」
クラッカーを頬張りながら、彼は分かるわけないと微笑んだ。
「君のお目付役の幽霊と同じさ」
「──そりゃ、すごい偶然だ」
菓子を胃に流し込むまでのタイムラグが、居心地の悪さを助長させる。イングランドのクラッカーは口の中の水分を奪うことに長けている。アーノルドは白ワインを飲み干して、ぺろりと口の端を舐めた。
「ジャック、それでお前はあいつにあんな態度だったのか」
「あんな?」
「不遜っていうか。横柄、か? なあ」
どさりとベッドに座り込みながら、グラスをデルキスタに向けて問いかけた。上流階級らしからぬ振る舞いに焦りが生じたか、そのような繊細な話題に自己意思を必要とされる気まずさにいたたまれなくなったか──私は両方だとみているが──デルキスタは曖昧に眉をさげて笑い、ブランカを飲みすすめた。
「違う人だとわかっていても、重ねてしまうことはある。名前だけの問題では、無論ない。面影を、何に、どこに見出してしまうかは分からないから」
「そうかもな」
「ジェームズと兄は似ても似つかない性格だと思うけど、ジェームズが兄だったらな、と思わなかったことはないかも」
「おいおい、そんなこと言っていいのかよ。聞こえてるんだぜ、ジェームズにはさ」
「いいんだよ。全部聞いたらいいのさ」
自棄っぽく声をだすと、フィリップスの眠たそうに揺れていた目がすこしひらいた。デルキスタとグラスを交えた時に、聞かれたことを思い出した。無礼講という言葉をご存知ですか。それは、この場にいるモノ全てに通用する言葉なのだろうか。そうであれば良いと思う。
「それで、もっと生きてればよかったなあって思ってくれるんなら、それがいちばんおもしろいね」
わざとらしく、拗ねたみたいに発言してみせた。結局、二人分のアーモンドを抱えて、じいやに謝ることになった、あの日のように。
「それよりフィン、横柄だなとは君も思っていたのか」
「──ジャック先輩、黙秘権という言葉をご存知ですか」
フィリップスが笑った。
── 酒を交わせるご友人ができた時には、必ずこちらを差し上げようと決めていました──……
きっと、当初は目的が違ったのだろうと、今なら分かる。このワインを私に贈ろうと決めたのは、その年なのだろう。私とジェームズが入れ替わり、いたずらめいた謝罪を仕掛けたことが、彼にとってはほんとうに喜ばしいことだったのだ。もう、おとずれなくなってしまった今日に思いを馳せる。ここに君がいたら、どんな二〇一〇年を思うのだろうか。ジェームズは覚えているだろうか。私と過ごした日々を、私といた屋敷を、あのアーモンドの香りを。
このワインはどんな味だと思うと問えば、アーノルドは「飲みやすいよ」とひと回ししてみせる。フィンが「おもっていたより甘いのですね」と言って笑った。フィリップスはあまり酒は得意じゃないらしい。ほのかに林檎色を帯びて、かみきれないあくびを何度もこぼしている。飲み干すに飲み干せなかった最後のひとくちを、名残惜しく思いながら喉へと招き入れた。炭酸がなくても、弾けるような刺激がなくとも、そんな微睡みをまずいだなんて思わない。浮遊感がからだを巡っていく。
「うん、おいしいね」
アーノルドの視線が、私と噛み合わなくとも、もう気にしたりしない。新しいきもちは、古い記憶を打ち消すためにあるのではない。このワインはこれからどんな味に変わっていくのだろう。熟成とともに琥珀色を帯びて、黄金にかわっていくのだと、じいやは言っていた。こうして交わした言葉のひとつひとつを、忘れることなく酒樽にいれられたら良いのに。
それでも、おそらくそうはならないのだ。セラーに並ぶボトルみたく、ラベルをつけて、誰かと語らう時を待っている。酸いも甘いも、誰かと共に飲み干せる日を待っている。ワインはすすむ。
