A370を、二階建ての路線バスが走っている。
アップヒルから見えるビーチロードには、人はまばらだ。十一月の海風は冷たく、ハーバーに入り込む船のいくつかは湯気を吹いているようだった。イングランドは霧と雨の国。水が足元を這わないこの日は、絶好の逃避行日和だった。私たちは次で下車する。
マフラーを巻き直し、久しぶりのスマートフォンに少し頬が緩んだ。隣に座っていた男の肩を叩くと、同じように携帯電話を取り出して、不慣れと期待に背を押されてもつれ降りた。
メルゴーの休みは短い。今夜には寮門は閉まるのだろう。私たちは「であれば」といってステイ先を選べるような自由な存在ではなかった。たった半日っきりの旅行が始まる。
◇
「チケットは買った?」
「はい」
吐く息も白く、うん、と頷いて足早に館内へ歩を進めた。ホルバーンミュージアムは、大きさの割に入場料のかかる、いわゆる小さな地域美術館だった。本格的な冬を背に控えたガーデンは予想通り人がおらず、閑散としていた。果たしてデルキスタがどう思っているのかは知るところではないが、金のかかる息子という立場を、今だけは捨てられるというのは、彼も同じだろうと考えていた。
十九世紀半ばの建築様式漂う館は、展覧数も多くない。見渡すだけで終わってしまいそうな気すらした。足取り軽い二人分の靴音が高い天井に響いている。名も知らぬ壁画が我々を見下ろしていた。
「おまえ、これくらい描けたら良いのにな」
「……画家と比べていただけて、光栄です」
不服そうな声が愉快だった。
絵画といえば、知識だけはあれども、家にあるものにしかほとんど触れてはこなかった。表現の価値や芸術のもたらす心の余裕には、理解を示してきたつもりだ。それでもきっと、私が深く知らなくてはならないのは、この価値を示すゼロの数なのだろう。鮮やかなキャンバスの向こう側にある未来をぼんやりと思った。
横に並ぶ彼はといえば、どうやらまじまじと鑑賞をしているようで、なぜだかそれも愉快だった。
「こういうところは好きなのか」
ただの話題提供のつもりだったが、顎に当てていた手は行き場をなくしたようにだらりと垂れ、相手はわざとらしく肩をすくめて答える。
「僕の絵心はよく知られているつもりでいましたよ」
「そうだったね」
だから、不服そうな声は愉快だった。
建ち並ぶ彫刻は想像よりも荘厳だ。
ミュージアムを冠する「ホルバーン」とは、サマセットにかつて存在していた小貴族の名だ。彼は三十代までに集めた己のコレクションが常設展示されている。後世がその私有地を美術館にかえたといったところだろう。探窟家や蒐集家とはまた訳の違う貴族という渦の中で、これだけ集めたのは誇るべきだとも思った。しかしそれでも貴族は所詮貴族、街中やロンドンが誇る展覧会などには、数は遠く及ばぬのだろう。ノブレスオブリージュに心身を置いたものは、結局自己を捨てることになる。自分によくよく染み込まされた言葉だ。
ガーデンは今でも管理が行き届いているようで、彩度の低い庭に冬の薔薇が美しく映えているのが館のなかからもうかがえた。
彫刻品も、これといって分かるものは無い。なんだか糸杉を思い出すな、と呟くと、彫刻品に近いのはあの”墓”では、と小さく笑う声がした。——ひっくりかえった寮内を思い返すと、同じようにあの日の出来事も思い出す。墓を、立てる側の人間でいられて良かった、とも思う。まろびでそうになる言葉を呑み下し、社交辞令の笑みを飛ばしておく。
もう彫刻も通り過ぎてしまった。ポケットからスマートフォンを取り出し時刻を確認すれば、旅行は順調に時をすすめていたらしい。庭園ではなにがしかの紅茶が振る舞われているようで、そちらにも足を運ぼうかという時、ふいに後ろから、寮長、と呼ぶ声が聞こえた。振り返れば、白い布をデルキスタが拾っている。
「ああ、すまない。ありがとう」
それは私のハンカチだ。
正確には、私の家のハンカチだ。
シルクでできた艶のある布。角には小さく薔薇の刺繍が施されており、メルゴーに通う生徒であるならみなそれなりに値をはることが分かるのだろう。飽きるほど見てきた、エヴァンスのエンブレムだった。物には拘らぬというわりに、なんだかんだと六年間今日この日まで使い続けてしまった年代物だ。
今日は、逃げてきたのだ。
家から。
寮から。
——「寮長」から。
そうだというのに、どこにいくにも肌身離さずつけている我が爵位、我が誇り、責務。まるで追いつかれているような現実に、ため息がこぼれてしまった。
「エヴァンス寮長?」
デルキスタが取らないのかと問うている。ひとつ礼を言って受け取った。
家が戻ってくる。家族が、私のポケットに入り込む。あの日のことを思い出してしまう。
◇
兄の手紙を突きつけられたあの日、ラプローヴが問うたのは、おそらく私の覚悟だったのだろう。少し赤くにじむ目尻と、伏せがちなひとみを冷たく尖らせて私に聞いたのだ。
「あなたが、事件を解決する理由はなんですか」
私は、守りたいと思っているからだと答えた。義務ゆえではない。あの楽園で私が勝ち得たものを、私の家のためにしたくなかった。私が私のために、私のエゴであの箱庭を守りたかったからそう言ったのだ。守るという言葉の持っている利己的な側面を、私はよくよく知っているつもりだった。それは方便にすぎないからだ。分かっている上で、守りたいと思っていた。そうすることで私の中の、「家では無い私」を大切にできる気がしていたから。
だというのに——“こいつ”に放った言葉はまるで逆だ。
守ってあげたいと吐いた口で、同じように彼に「信じろ」と選択を委ねたのだ。
ウィスラー寮監の命令は意味不明だった。
私には寮生を守れと託したくせに、デルキスタには「私の心を守れ」とぬかしたのだ。
そんなこと、やらせなくともよかった。やらせるつもりもなかった。やらせるつもりじゃ、なかった。
なぜなら彼は私が守るべき寮生だったし、私が愛するべき後輩だった。
核近い話題には敏感で、目敏くすり替えをしてくるくせに、私を試すような言動ばかり目立つこの補佐役に、苛立ちが何一つないというのは無論嘘だ。それでも、結局私は、それらすべてを赦したし、彼が私を慮るゆえのことであったり、責務の上にたつものとしての行動だと信じ、彼にも同じように信じるよう命令した。一体どこで彼を守れていたというのだろうか。
私は遼巡する。
カレッジとは、楽園であり、箱庭であり、訓練場だ。学年をひとつあげるたび、ひとつ自分を捨てようとする場所だ。その中で、彼だけが、私の中にある「私」の部分を分析しようとしてきている気がしていた。
——捨てなくても、もしかしたら良いのかもしれない。
私はまだ庭の中にいる。だから、芽生えた花を迷いなく手折ることができないままでいる。
それでも、私も彼も、これから先もっと捨てなくてはいけないものは増えていく。それだけは確かだと思った。
◇
「寮長!」
過ぎる思いがいっぱいになった頃、再びその肩書きが現実に連れ戻す。
ポケットの中のハンカチはなぜか冷たく、握り締めても温度を感じられなかった。
「いつまで寮長をやらせるつもりだ」
思い切って尋ねてみる。
デルキスタの睫毛の長い眼がすこしだけ開いた気がした。
「何しにきたと思ってるんだ。ジャックでいいよ」
これは甘えだ。自覚があった。またも同じことを繰り返している。またも、後輩を困らせている。寮長など失格だな、と思い、「なんでもない」と撤回を告げようとした時、デルキスタがなにかを振り払うように口を開けた。
館内は暖房がゆき届いている。言葉は霞に隠れるわけもない。もしかしたらお互い様なのかもしれない。
「ジャック先輩は、僕のことを、フィンと呼んでくださらないのですか」
次に目を見開くのは私の方だった。脳裏に浮かぶのは彼のファーストネームとファミリーネームだ。記憶違いなどあるわけない。おまえ、それでいいのか。——いや、それがいいのか?良いのか。それで。
なぜ、十七、八にもなって、こんな一学年のようなことをなさなければならないのだろう。友達の作り方というものは、とうに体良く学んだと思っていたのに。
頭を掻いた。指先がどことなく気まずく暖かい。観念しようと目を伏せる。話題をふったのは私の方だったのだから。
「分かったよ、フィン。……行こう!」
彩度の低いガーデンを指差しながらそう答える。フィンは見たこともない顔で笑っていた。私にはなんとなくその意味がわかる気がしたし、私が彼でもそうだったかもしれないと感じた。
ゼロなどひとつもつかない、この世に一つしかないへたくそな絵を、なんだかどこへも捨てきれず、大事にしまっているのは黙っておくつもりだ。
