ニューヨークの街に、雨が降っている。少し霧がかった空気は足音を小さく、水の中に隠していく。濡れるのは体温が奪われるから好きじゃない。けれども今は、よりかかる体重があたたかくて、とても寒さを覚えられない。暑いくらいだ。
アルフレッドはシャーロック・ホームズを読んでいる。彼の腰掛けになっているアローロは、そのひとつまえのシリーズを借りていた。アルフレッドは小説が好きで、アローロが部屋に遊びに行けば、大抵床にいくつもの物語が転がっている。だらしがないと指摘すれば、寝ぼけながら片付けてくれとねだってくるから、すっかりどんな並びだったか覚えてしまった。アローロも、本を読むのは割と好んだ。勉学も読書も触れること自体が遅かったため、今も得意だと胸を張れたものではないが、嫌悪感はない。読み終わるまで時間こそかかるものの、大抵アルフレッドが勧める本に外れはなく、最後まで浸ることができた。不思議の国のアリスを読んだことがあるかと聞かれた時は訝しんでいたが、趣味趣向をはかっていたのだと、共に過ごすうちに気がつくようになっていった。
雨は音を吸い込む。だから、雨の降る日は読書に向いている。アローロも、黙々と違う世界にのめり込める瞬間は好きだった。自分も知識人になれたような気がしたし、紙の中には国境も違いもない。
◇
霧と雨の国、イギリス。
アルが「地縛霊」とやらになり、はや一月が経とうとしている頃、虚空に語りかける自分への目線にごまかしが効かなくなってきていた。ユアンやエディが善行に勤しみ、ひっしと掻き抱いてきた有金を、全てといっていいほど盗んでロンドンを出た。
一九二〇年代、イギリスには外国人令が敷かれはじめ、一度は終わったはずの戦争の足音が再び忍び寄っている。ロンドン郊外にはチャイニーズのコミュニティが点在しているが、まともな中国語も喋ることのできない人間が少人数のあつまりでどこまで信用されるかわからない。ともかく森と同じ形をしている木になれるよう、換金や調達を繰り返しながら、おれたちはリヴァプール──十八世紀からアジア人の痕跡残る土地──へ、移動を続けている。
そんな中、アルの提案もあり、今は簡易的な拠点として「空き家」に転がり込んでいた。この時勢で小さな河畔周りにでも住んでいるやつがいれば、それは先も縁もない老人が薪(たきぎ)を抱き込んでいてもおかしくはないという。空いていたのか、空けたのかは、おれと「幽霊」にとっては大した問題じゃない。出自を──前職を、考えるのなら。
幸いなことに、確かな距離はあるものの、ものを売る郊外までは自転車でも到達でき、周囲は木々に囲まれている。そこは家というよりも古屋といった趣で、様々なものにがたがきていた。だがそれでも自分には憑いている存在があるしと思えば、何に関しても大方のことがどうでもよくなるのだった。
はじめは追手が来ないことに胸を撫で下ろしていたが、逆に全てわかっていてこの選択をしているのではないかとも思うようになった。彼らは同じ生まれのやつらにしてはできすぎている心を持っているから。
◇
背筋を這う気配にたえきれず瞼をひらく。英国にきて、これまで朝に目にするモノといえば──木製の壁、趣味のよくわからないマリアーノの絵、ユアンの医学書、エディの朝食──そんなものだった。それが、どうだろう。今はといえば、どこか満足そうに微笑んでいるアルしか視界に入らなかった。どうやら、今日の天気は晴れらしい。
「おはよう」
「はよ」
コーヒーも紅茶も贅沢品だ。寄生先の古屋は暖炉があるだけまだましと言えた。湯をわかして先週あたりに買いにいった食料をひらく。パンと缶詰だけでも案外なんとかなるもんだと思っているが、これは自分の幼少期の経験の賜物かもしれない。
「ロロ、今日はどうする?」
「昨日の続き」
「いい加減釣りにいきたい」
「そればっかだなあ、アルは。調整しなきゃ使えね〜っておまえが言ったんじゃん」
「おまえがそんなに不器用だとは思わなかったんだ」
「不便だね、幽霊は」
アルが河畔近くの家を拠点にしたがった理由に、確かに便利だということもあるだろうが、おれは大方この「釣り」が大きいのではないかと思っている。確かに、薪もあったし、最低限の生活を自足している痕跡もあったが──釣竿を発見したときのこいつの声と言ったら。喜びの「おいロロ」を横目によかったねと言おうとしたが、ヒッコリーでできた細木の金具がさびていたり、糸がからまったりしているのを見落としていた。それで結局、アルのお小言を聞きながら、彼のご希望である河畔釣りを達成するためにせっせと手入れをしている最中なのだ。これでも精一杯やっているつもりなのだが、どうも飲み込みが悪いらしい。
おれはアルの指示がへたくそなのも原因の何割かを占めている気がするが、彼が拗ねるとこじれたルアーよりも厄介だと思ったので言わなかった。──本当は、そんな彼も少し見たいので、隙を見て言ってやろうと思っている。
「そういえば」
「うん」
「今日は唸ってなかったよ」
「あ、そう? 今日も夢見たんだけどな」
「教えてくれ」
「どこまで話したっけ」
「屋敷の外から声がするとこ」
なぜなのかは知らないが、アルに追いかけ回されるあの不思議なできごと以降、おれは変わった夢をよく見ている。
甲板で酔いながらみた夢はめちゃくちゃだったし、今もぼんやりとしか覚えていない。大概の「夢」というのは本来そういうもので、思い出と存在しないことの中に、忘れたくないものが仕舞い込まれている。
そういった日常の言葉にある夢、ではなく──最近の夢は、夢同士が繋がってひとつの物語になっているような感覚があった。
何故かはわからない。この夢が始まったのはあの不可思議な出来事以来なので、そういう類の産物だと思うようにしている。
最初はあかりのないエルツィオネの屋敷の中をひとりでうろついているだけだった。電源の位置や部屋の配置も記憶の通りで、何をしてもどこもかしこも暗いままだ。しばらく歩き回って誰もいないことを確認し、誰かが帰ってくるまで本でも読んでいようとアルの部屋をあけるところで目が覚めた。
別の日、夢は誰もいないアルの部屋からはじまった。部屋は未だ暗かったのだが、どうも本を読むには不便だ。無理を承知で電源をいれれば、鈍い音と共に灯りがついた。気をよくして本棚の前に立ち、そういえばこのホームズシリーズの続きを読んでいなかったと、勝手に拝借して自室に戻ったところで目が覚めた。
別の日、自室でおれは依然としてひとりのままだった。夢の中だから、というよりは、まだ読んだことのない本だからだろう。本のページをいくらめくっても、まったく内容が頭に入らない。白紙の紙にこれは白紙だと書いてあるようなものだった。つまらないなと思って本を閉じると、外から何かが自分を呼ぶ声がして、顔をあげて目が覚めた。
そして今日。その声につられてドアをあけると、屋敷の外には、一面の砂浜と海がひろがっていた。
夕日だか朝日だかしらないが、オレンジの中にうすいピンク色とパープルがかかったみたいな複雑なグラデーションが、どこまでも幻想的にゆめを彩っている。
吹くはずのない海風が首筋をやわらかに撫であげて、ちりんと耳元で鳴った。なぜだか確信めいているおれは、「アル?」と名前を呼んで、振り返る。そこには当然といった顔をしたアルが立っていて、おれに何かを言っているのだ。
「何かって?」
「知らないよ。おまえの声聞こえないんだもん」
「一番大事なところじゃないか」
「おれも聞きたいんだけど。あ、でも」
「うん」
「おれの名前を呼んでるのはわかるよン」
「いやそれは──、おまえの、自意識、過剰かもしれないだろ」
「違いま〜す。口の動きでわかるんです〜。アルこそ意識しすぎ〜」
「は」
「は?」
「はやく。釣竿を直してくれ」
この口のとがった幽霊はまちがいなくアルだ。おれは満足して従順な人間にもどる。
言われるままに軽食をとったりしながら手元を動かし、夕方にさしかかる少し手前、隣でアルが「よし」と言った。
ロッドの傷自体は当然多数のこるものの、溜まった埃や錆屑はさっぱりと落とされ、オイルによる塗装も下手のひとつ覚えなりにうまく乾いた。握る部分にあたるコルクは、下部にいくにつれてぼろぼろと傷んでいるが、こればかりは値段だと割り切るしかない。さすがのアルもこれを直せとは言わなかった。
「行くか!」
「うん」
イギリスというのはお貴族さまが紳士的に生活を整えている国として成り立ってきたらしい。釣りをするのも本来ならば国への許可証が必要で、その土地の所有者だけでなく、川の所有者にも金を払わなくてはならないし、釣りたい魚も使う餌も申告してロッドひとつひとつに扱うための免許もいるのだという。なんという高貴な遊びだ。ニューヨークでこいつと海にバスを釣りにいったときなんて、巡回してる警備員に金をいちどはらえばグッドラックと言われておわりだったのに。
今更だが、おれたちは不法ものだ。
──散々逃げてたどりついた果てがここなのだ。
「そんで何釣んの?」
「そんなにいきなり釣れると思うな。下手なんだから」
「手厳しー」
小エビの缶詰とバケツを片手に、適当な服に着替えて外に出る。傾いた日が木漏れ日と木の背丈を一層長くさせていた。アメリカと違うと思ったのは、なんだかんだで一日の長さの違いかもしれない。
針先に餌をひっかける。もたつくたびにアルが笑っている気がして、おれはそれが、なぜだか嬉しかった。
「よっ」
「遠すぎだ。そんなところにいない」
「えー!はやくいってよ!」
おれの隣から川の上を歩くようにアルが移動して、対岸の縁あたりで水の底を覗き込んでいる。ほら、ここにいるぞと指をさしているが、おれにいけるわけもない。仕方ないのでそこを目掛けて竿を振ると、ちょうどアルの真横を針がとおりぬけた。「あぶないだろ」とアルが笑って戻ってくる。何がだよ。その自虐ネタ笑っていいのか? おれにはわかんねえな。針先の餌が川底についたような気がしたので、しばし停止した。竿の先が微動して、アルが「いまだ、ひっぱれ」と声をあげた。(おれにしか聞こえないんだった)なにがしかのシルエットが見える。イギリスでの初釣りだ。
「お、ザリガニだ」
「なーんだ。魚じゃないのか」
「ふふ」
「なーに?」
「楽しいな」
「え」
「ロロ」
「うん」
「──……ロロ?」
「ああ、ええと。もう一回、ほら、魚いるとこ、教えて。わかんないから」
「わかった」
アルがまたうろうろと川の上を歩いている。木漏れ日の向こうで、ローチがいるだの、狙えだのと、楽しそうに笑っている。おれが釣竿をゆらして、餌のさきでもみてりゃいいのに、律儀にあいつが戻ってくる。
夕日が伸びて、木々の緑と光のあわいに、オレンジだか、パープルだかみたいなグラデーションが混じり始める。風がやわらかく首筋を撫でていく。
ピアスの音が鼓膜をふるわせる。
どうにも、脆くなっているらしい。
「ロロ」
「うん」
「ひいてるって」
「待って」
目にゴミ、なんていうカスみたいな言い訳を、おれは生まれて初めて使った。
ひけなかったあの1回、おれは釣竿をおとしてしまった。アルは掴もうと手を伸ばす。だけど、なんの意味もなく、修繕した釣竿は茂みに落ちて、とりもどした時には魚はいなくなっていた。
その後釣りも再開し、アルの目当てである「ローチ」という魚を数匹釣り上げたは良いものの、全てリリースして家に帰ることになった。
◇
「ロロ」
「なあに」
「これでずっと、おれだけのロロだ」
本当は夢の中でずっと聞こえていた。
◇
背筋を這う気配にたえきれず瞼をひらく。つまらなさそうにこちらを見ているアルしか視界に入らなかった。どうやら、今日の天気は雨らしい。
「おはよう」
「はよ。釣りはお預けだね」
「うん。ロロ、今日はどうする?」
そうだなあ、といいながら、湯をわかしていた。
ニューヨークの屋敷を思い出す。
眠る前、こいつが、寝付けないといって部屋にやってきたこと。
借りた本を夢中になって読み切ったら、いつのまにか夜中になっていて、返しに行ったらまだアルは起きていたこと。
不思議の国のアリスは好きかと聞かれて、嫌いじゃないと答えたこと。
おれと同じだなと曖昧に笑われたこと。
紙の中、もしもを話すのは嫌いじゃないこと。
それでももしもに世界はまわらなかったとわかること。
「夢の続き、聞いてくれる?」
ウェールズに雨が降っている。古屋に雨漏りひとつでもしていれば、おれがおまえの拒絶をなにより怖がっていること、隠せただろうか。穏やかに続きをまつアルにことばを教えると、存外嬉しそうに笑った気がした。
