恋と病熱

 口を開けてものをねだらせた。何の疑いもなく、餌の投与を待つ唇が、やけに魅力的に見えたのだ。理由として思い当たったことは、それくらいだった。目論見が重なっていたことは誤算だったが。
 今、二つの影は一つになることを拒んでいた。
 ──正確には、どの順序で密着するべきか、睨み合っている。
「ねえ。前はおれが下だったろ」
 アルフレッドは口数の多い方ではない。加えて言うのなら、言葉も巧みなやつではない。不満がある時はアローロの脛を蹴り、眉間に深い谷を作る。それから──
「ロロ」
「なんだよ」
 アローロの名を、便利な魔法の言葉かなにかだと思っている。

 いつからこうだったかはもう覚えていない。いや、大まかにではあるがアローロは覚えている。かれこれ、からだが重なってから、二年以上の時は流れているのではないだろうか。だが些事だった。別段、男が性愛対象になったわけではなかったので、必要とあれば女も抱いた。アルフレッドの身体に変化がおきたということもなく、彼の胸は細身ながらに男性特有の硬質さがあり、自分たちにとっておかしなことなど何もなかった。ずっと。
 きっかけがなんだったのかはもう覚えていない。さすがに、こればかりはもう。大層飲んでいたか、大層気が良かったのか、或いは両方か。二人はその日外泊していて、違うベッドで眠りにつこうとしたはずだったのに、扉に鍵をかけたとたん、なぜだか時が自分たちを急かした。はじめにアローロの指がアルフレッドの頬に伸びて、ほとんど同じ速度でアルフレッドはアローロの首をなぞった。引力みたいに両額が擦りついて、どこへと彷徨う手のひら同士が「本当に良いのか」と尋ねていた。しかし、そこまで二人は同じだった。だからことをすすめた。口ははじめからあいていたし、あんなに近くにあったから、吸いつくのは簡単なことだった。うっすらと瞳は閉じられ、角度を変えて舌をまぜて、身に纏う布を剥がしていく。うすっぺらいシャツの下に、アルフレッドのはだが照らされた時、ふと、アローロの頭に疑問がよぎり、それはそのまま声になった。「おまえ、やり方わかんの」
 アルフレッドは口数の多い方ではない。まして、巧みでもない。
「見よう見まねで」

 翌日アローロの腰が悲鳴をあげることになったのは言うまでもないだろう。さすがにあのまま無体をはたらいたら、殺されると思ったのだ。

 今もまた、へたなことばでアローロのことを組み敷こうとしているらしい。だが、二年だ。そう、指折りほどの頻度でこそあれ、あれから自分たちは役割を変え嗜好を凝らせるほどにはなった。アルフレッドだって受け身の負担を知ったし、それとなく自分たちの快いところも見当がついている。だから、こういう気分になるのは、決まって大抵なんてことない時だった。どうせ、アルフレッドもしょうもない理由がきっかけだと、アローロは思った。錠をまわす音が開戦の合図だっただけ。そして稀なことに、今日はどちらも跨りたくてしかたがないだけなのだ。
 ベッドの縁に二人は腰をおろしている。ランプシェードのやわらかい光が、美しいシルバーブロンドのまるい頭部をあわく暈していた。ロロ、ともう一度アルがねだる。アローロは聞こえないふりをすることに決めた。今日は流されない。かぶりを振って、彼の得意な会話をはじめる。
「またじゃんけんで決める?」
 アルフレッドの少し緩まったタイを軽く引いた。作戦がうまくいかないと感じたのか、アルフレッドはアローロのその手を制しながら、ベッドに体を沈める。少し軋む。
「いい」
「あら、素直ね」
 許諾をえたアローロが、上機嫌を隠せないでアルフレッドの上に身をのりだす。対してアルフレッドの掌が挑発的にアローロの腰から胸へと這いはじめる。布一枚の上から、指先だけで奮う飢えが伝わるようだった。心臓の上を通ったら、この期待も暴かれるかもしれない。どこかスリルめいた高鳴りはアローロの喉を鳴らす。アルフレッドの指はそうして首で止まった。蒼銀のネックレスを弄び、いたずらに目を細めている。
「二回目は代われ」
「むかつくぜ、それ」
 もう自分の番のこと考えてるのか、とか、自分の番が回ってくると思っているのかとか、そんなことを思っては、泡沫ときえた。夢中になって一個になれば、どうだってよい。快楽が目的ではない。自分たちの間に何も無い、モノもヒトも上も下も策略も入り込めない真実で、この胸をいっぱいに満たしたかった。
 アローロは少し疼いた優越感に浸るまま、アルフレッドの下腹部のさらに下に手を伸ばした。すべらせた指は触れる寸前で横へとそれる。落胆に似た吐息が耳朶をくすぐって、アドバンテージに酔った。行為自体に意味を見出しているわけじゃない。口だけなら、思うだけならなんとだって言えた。次第に強張っていく身体を押し付けあうと、どちらが求めているのかなどもう霧散して、アローロはただ急くばかりだった。
 衣擦のあわいに唾液の音が忍びこみはじめる。わざとらしいアルフレッドのくぐもった喘ぎに、おかしいと思いながらも愛おしさに似た温さが溢れた。自分の一番外側が、熱をもっているのがわかる。押し隠した衝動が滲み出ないように、どうにか薄い人皮が堰き留めているだけなんだ。アルフレッドがまた名前を呼んだ。今となっては、それは甘やかな魔法の言葉で、押し入ろうとする自分を赦している。幾度か内臓を突くと吐き出る息に音が乗って、つられるように体が動いた。
 最も深く敏感な部分が煮えたぎるころ、渇望に近い痙攣をともなって、欲は快楽に代わって吐き出される。
 白む脳の向こう側、様々な思惑の影に隠れて、ようやく彼と同じになったと感じていた。シルク色の顔の真隣に、小麦色の首をうずめた。ひんやりとした彼のピアスが、自分の左耳に触れている。まるで温度まで分け合うみたいに。ましろのうなじは火照って染まっている。きっと自分もそうだとアローロは思った。こんなにも違う肌の色を重ねても、今ばかりは等しく在れる。どんな悦びよりも、きもちがよかった。
 激しく上下する胸がゆるやかになったころ、思い出したように、アルフレッドが起き上がってアローロを見下ろした。
「ロロ」
「そういう時は交代っていうの」
「交代」
 アローロは、自分も魔法を使いたくなった。

 ──結局、二度目がきた。
 真っ暗になった天井は物を言わず、今聞こえてくるのは、夜の静けさ、ガス灯のゆらぎ、隣の男の寝息だけだ。
 正直にいえば、体は疲労を訴えていた。おそらく今立ち上がればふらつくことは明白だ。どうにか上手く日常を回せているのだから褒めてほしいくらいのものだと心中でぼやきながら、水を求めて体を少し浮かせて、やっぱりやめた。

 アローロは一度、こうなる前に意識を落としたアルフレッドに痺れを切らし、部屋から発ったことがある。元々、性欲が強いわけでもなかったので、セックスの一つや二つ機会に恵まれなかったとしても、そう気が立つこともなかった。やはり自分たちは快楽がほしい訳ではないと、静かな怒りの輪郭がみえていた。
 つまりアローロ──ロレンツォは、対等でいたかったのだ。目の前で、命を曝け出して眠る、この若者と。そのための、儀式めいた時間だとさえ思っていた。
 あと何年、あと何回、こうしていられるのかなど、全く検討もつかない彼の胸中で、ロレンツォは幾度と知れず自分が彼だったらと懸想した。どこかで、アルフレッドもそうなのではないかと淡く儚く期待を寄せて。そんなことを思うのは、立場が異なるものだからだ。産まれた境遇も世界も求めるものも違う。ましてファミリーという法と異なる戒律でつくられた狭い社会に身を置く中で、アルフレッドは次の長だった。あらかじめ決められた未来、関係は、汚い路地でひらいた瞳を凝らさなくとも明瞭だった。それを、忘れられる時間だった。ロレンツォにとっては、少なくともそうだった。
 やはり違うのだ、こいつとおれとでは。そう思い扉を閉め、得意の物音立てぬ足を、どことも知らぬ女の居着く館に向けた。
 だというのにだ。
 だというのに──最後に向かったのはアルフレッドの眠る部屋だった。あのとき、ネックレスが鳴らなければ、どうだっただろうと、ロレンツォは思った。今となってはもう分からない。けれども、確かに踵を返す理由になった。まるで惜しむようにゆれる金属音。まるでそう、魔法のような──……。
 ロレンツォはひときわ大きな悪態をついて、アローロに戻って行った。勢いよく扉をあけるとアルフレッドはおきていて、心許ない羽織を崩させながら、「どこ行ってたんだ」と問うた。
「正気かよ」
「至って正気だよ」
 羽織が落ちる音がした。アローロは外方を向いていたが、アルフレッドが近づいてきていることくらいは分かっていた。情に訴えかけようものなら、反論すると決めていた。子供じみたこの自分の発想にもほとほと嫌気がさしていたが。戸惑いと困惑がこぼれでて見える足取りが、視界の端にうつったとき、焦ったくってたまらなくなり、アローロはアルフレッドを見据えて怒声を張った。
「あのな、元はと言えばお前が」
「置いて行かれたかと思った」
 アルフレッドが呟いた。
 口惜しいよりも先に、なぜ許してしまおうと思えるのだろう。アローロは、未だ分からないままでいる。そうしてずっと、許し続けている。
 思えば自分は、最初は触られるのも嫌だったんだ。いつからこんなになったんだ。お前のせいだと言いたかった。
「アル、ごめんって」
 アローロは魔法を使いたかった。
 

 
 赤みの抜けた頬が、室外の光でぼんやりと照らされている。月のない夜だった。闇に慣れた眼はアルフレッドをひしと捉えて離さない。いつだったか、彼が、「おまえといると良く眠れるんだ」と冗談っぽく笑っていたのを思い出す。会話の種としては面白おかしく、その場の誰もが弾ませ膨らませたものだったが、あながち間違いでも無いのではないかと、アローロは口角をもたげた。すっかり全てを預けられて、悪い気を起こすやつなどそうそういまい。そうしてじわじわと、罪の意識だけが蝕み続ける。巣食う劣等感も、どうしたってなれない関係も、真っ暗な天井と同じだ。自分の視覚だけがその中で冴えて、間違えないよう、生命の線を歩かせ続ける。
 アローロは魔法を使いたがった。
「アル」
 声色は、彼が出せ得る中で最も甘ったるいものだった。
 アルフレッドに聞こえていないことは百も承知の声だった。儀式のような音だ。
「アル」
 もう一度名前を呼ぶ。彼が目を覚さないようささやかに。
 暗闇しかない道の先で、目を覚まして、自分だけ選んでくれないか。共に、同じ天秤の重さで。祈るように、祈れる身でもないことを知りながら、何度も、何度も、何度も呼んだ。