一年の節目を祝う宴は、荒廃した世界でこそ必要なものだ。明日の保証さえない赤黒くにごった場所ゆえに、今日の鼻腔をくすぐるものを人は希望とよぶ。奇跡的に現存しているバロック建築様式の宮殿天井は、厳かかつ華やかに、五体無事に集ったすべてのアルカナ所持者を讃えていた。頭上では贅沢な鯨蝋が爛々と揺れて、艶めいた床に皆の姿を反射する。いつかの資料の中に残る着飾りはなく、そのほとんどはみな隊服であった。それでも、会場に響いているのは、靴音ゆきかう高い音に、立食を楽しむ度に重なる銀食器の音、古めいた楽団のゆったりとした演奏、そして、微笑み合い談笑するすべての人たちの笑い声だ。
「ソーマ、ちゃんと楽しんでるか?」
よう、とユダはソーマの肩に触れた。常ならばともかく、心地よく賑やかな気配に囲まれていた中では気づかなかったようだった。ソーマは大袈裟に振り返ると、食器を近くの円卓におき、胸を叩いて詰め込んだ食事を飲み込んだ。「おいおい」とユダは近くを通ったウェイターを引き留め、しゅわしゅわと炭酸がたちのぼるグラスを二つひきとって手渡した。
「ゆっくり食べな、セレーネの隊長さん」
「す、みません、ユダさん。ありがとう。……これお酒?」
「何か問題あるか?」
「もう。ないけど」
気恥ずかしそうに持ち上げられたグラスのふちに、軽快に乾杯をして数口含む。「飲みやすいですね」と、もっともらしいことを言う若人にユダは片眉をあげて笑った。林檎の香りがまろんで抜けていく。シードルはビールやワインに比べてアルコールがきつくなく、きっと彼の舌にもぴったりだろう。選んで正解だったと口の中に溢れた言葉は、酒と一緒に飲み込んだ。
「もう隊長二年目か、時が経つのは早いねえ」
「ユダさん、おじさんみたいですよ」
「おじさんだからな」
テーブルに置かれた食べかけの皿を盗み見る。綺麗に菜食肉食と食べた先の、甘いものが多めに取られている様子にまた口角がくっと上がった。少年のような不機嫌さを眉頭に宿して、「なにか?」というソーマの頭を、なんでもないよと撫でつけたその矢先──、背後からの不安定な気配に、ユダはハッと振り向いた。
「ゆ〜だちゅわあ〜〜〜ん!」
「ウオッ! アルバ!」
「な、なんだあんた!」
咄嗟に左手を開き、両頬に真っ赤になった薔薇を咲かせた旧友の顔面を鷲掴んだ。グローブ越しにべたりとねばついたのは十中八九酒だと分かった。
「んえ〜ねえ! 今日はうたげ、なんだからさ〜、全部奢り! 最高の気分だろ! こんなん…飲まないと、損だぜ!」
「くっせえんだよ、お前!」
へべれけながらに伸ばされるアルバの腕を、体をうねったり弾いたりしてしのぐ。 真隣で、ソーマが抗議の声をあげていると、会場の空気がわっとかわり、ホールの壁に沿ったテーブルの群れから、次々にひとが飛び出してきた。なるほどとユダはつぶやいた。
楽団の演奏が変わった──つまり、ダンスタイムがやってきたのだ。
「んー今だな。ソーマ、こいつはおれがどうにかするよ。最後まで楽しんどいで」
「あ、ユダさん、ありがとう! チェス、また、教えてください」
各隊の隊長たちだけでなく、その副官や隊員も、今日を忘れ、過去を労い、明日を祝福するように、ひとりまたひとりとダンスの輪の中へ加わっていく。破顔するもの、目を伏せるもの、涙を溜めているものもいる。
しなだりかかる厄介な白髪を別の壁へと引きずりながらユダは離れた。肩の後ろで何かを喋り続けているが、意味のないことを繰り返していると判断したので、一切の相手を取りやめた。さて、どこへ捨てようか。
「おっ良いところに」
中央の大扉から北と南に離れたところに一つずつ、同じ廊下へと通じた両開きの扉がある。その近くへとアルバを運んできた最中、壁の花を決め込んでいた女性と目があう。両腕はすでに使っていたので、顎で「あけて」と頼むと、彼女は仕方なさそうに一つ頷いた。黒いウェーブの髪をゆらして、片方の扉を押した。
「オラ! もう少し落ち着いて戻って来い、アホッ」
「え〜」
扉の向こうにアルバを落とし、勢いよく閉じる。錠前は所持していなかったので、近くにあった椅子を引っ張り運び、扉の前に横たえた。
「助かったよ、アーキルメイ」
「いえ……構いませんが。……よろしいので?」
「どうせ違うとっから戻ってくんだろ」
両手を数回大きくはたき、行く当ても特になかったので、あらためてアーキルメイに向き直った。
「メイちゃんは? 踊んないの?」
「……さして、上手くもありませんし」
何をするもなく眺めていたのですと続ける彼女が見据えた先を、ふうんといいながらみやる。眼前に並ぶ数々のテーブル。その奥、宮殿の中央に広がるダンスホール。そのさらに奥。豪勢にガラスをはめた大窓が、重たい布でできたカーテンの向こうに隠れている。ユダは「ああ」と納得した。
「んじゃお手をどうぞ」
「え……」
「連れてってやるよ」
◼︎
バルコニーに夜風が吹いている。外は相変わらず貧相な色をしていたが、窓を隔てて聞こえてくる明るさが、どうあれ人の営みは続いていることを確かに感じさせた。
アーキルメイは髪を耳にかけ、殺風景な世界を眺めて苦笑した。
「貴方は社交の嗜みもあったのですね」
「ん〜? はは」
フロアの柵に背を預け、肘掛けながら笑った。くるくると回る人々の踊りの中に、二人でそれとなく混ざりながら、ここまで渡ってきた。──途中、何度かユダはリーダーではなくフォロワーのステップが体によぎったり、つい癖で大股になりかけたりもしたのだが──所作の甘さに言及しない彼女の優しさにのっかって笑った。
「教えたやつの腕がよかったのかもな。なんだかんだあんまり慣れねえわ。こういう……」
「……形式ばった?」
「そうそう。農村の踊りのほうが、まだ馴染みがあったよ」
静かに談笑を交わし、首元のホックを緩めた。
「それもまた伝統でしょう。提案でもされてみては」
「ありがとな、でももう帰んなくなったんだ。変わってたら分からんしいいのさ」
三十年、とユダは思った。故郷、イーストロンドンの、さびれた村を思い出す。馬が荷車をひき、誰もが自分を知っていたかつての小さな自分の世界。たった数十本しかない木々を畑とよび駆け回り、熟れきって端金にもならない果実をおやつにはしゃいだ。麦はどんな世界でも貴重なもので、多く収穫できた年にはみなで喜び、前後もわからなくなるくらいめちゃくちゃになって踊った。腕を組んで回る、それだけで皆が満足する──今となっては、別の場所になってしまったふるさとから、それだけの時間を離れたのだ。
「後悔でも?」
アーキルメイがわかりきったことを聞いた。
「……女教皇ってみんなそんな感じになんのかねえ」
「さあ。私には分かりかねます。……何を以て?」
二人だけのバルコニーで、未だすこしの会話が続く。ユダは顎先をかいた。
先代女教皇は、自分と比べ一回りほど年齢は下回る女性だった。アーキルメイを彼女の生き写しのようにとは夢にも思わなかったが、<アルカナ>は皆なにかを見出し託宣しているのでは、と実しやかに囁かれる研究の真偽を思った。そうして置いてきたものをよぎらせ、若き犠牲者を悼み、ここまで歩んできた自分の道の先に、もうこれ以上誰も置くべきではないとも。
「おれが女教皇の先代に言われたのは、おれらは一緒に死ぬかもしんないよって話」
「……なるほど。我らの能力を鑑みれば、あり得ない話ではありませんね」
ユダは、声を出して勢い付けながら、柵から身を持ち上げた。大窓に片手をつき、彼女に向き直る。
「そう。おれがなんつったかわかる?」
肩をすくめ、両腕を遠慮がちに開いたのち、首を小さく横に振った。
「メイちゃん。そう言う時が来たら、どっちが先に死んでも、恨みっこなしだよ」
間髪もいれず、ベールの向こうに強い意志を宿したまま、アーキルメイは答えた。
「さすればそれが我々の天命でありましょう。遅かれ早かれ、辿る道は」
「さほど変わらない」
「ええ。そのはずですから」
そっくりだよとは言わず、ユダは大窓を開けた。赤黒い内緒話の空間に、笑い声が流れ込む。楽団の音楽は今一度止み、チューニングのハーモニーがきこえはじめた。
「お、アルシラじゃないか?」
「そのようですね」
どうやらダンスタイムは終わったらしい。人の波はさっと壁へとかえり、中央は地上にただひとり輝く星のためにあけられていた。アーキルメイもこれにはどれと興を買い、ユダの数歩後ろから宮殿を眺めた。
宮殿の天井は、贅沢を散りばめた蝋がまぶしく照らしている。それは本物の空を求める人々の願いにより、青く、青く塗りつぶされている。その真下、歌声を響かせるために楽団の音を待ち侘びる彼女の白く美しい髪は、まさしくひとびとの希望となるだろう。明日の一面はきっとこれに違いないと誰もが思った。すうと呼吸した音すら凛とし、みなが耳を傾けていた。
Should auld acquaintance be forgot, and never brought to mind ?
For auld lang syne, my dear, for auld lang syne,
We’ll take a cup o’ kindness yet, for auld lang syne.
