ゆめのはて

 四月。「ソメイヨシノ」が咲いている。安いアパートの二階から、これから通うことになる方角の並木道が見えた。三月半ばからぽつぽつと桃色をのぞかせていたが、今やただ散るを待つ満ちた白いざわめきだった。玄関を開けて風が運ぶ花びらを眺めていると、もつれ転がる音がフローリングを叩いて、背後に迫る。
「悠ちゃん、お弁当は⁉︎」
 母だ。寝つくのに使ったばかりのブランケットを握りしめたまま、おれの体の向きをかえている。
「いや、だから、いらないんだって。今日はどのみち早く終わんのって言わなかった?」
「あっ、そうか、そうだったかも」
「お母さんもう寝たら? 炒飯の素とかあったじゃん今日。あれ自分でやるよ」
「ご、ごめんね〜……」
 そっと肩から手を払う。
「良いって、高いとこいれてもらえて感謝してる」
「それは悠太の努力でしょ」
「はいはいそうかもね、じゃあもう寝て仕事に備えて」
「はあい、行ってらっしゃい」
 手を振る母に軽く振り返すと、少し隈の残る笑顔が見送ってくれた。夜勤、疲労、賃金、過労、奨学金、特待制度……、心配事は尽きなかったが、ぼろアパートの階段がすぐに修繕されることもないように、そんなことに何度も心を痛めても意味はない。走り降りて自転車に跨れば、春一番が背を押していた。
 

◾️

 自転車でひとり通学する。桜並木に沿ってぽつぽつと同じような制服がみえる。エスカレーター式の大学附属であるため、高校まで同じ顔も多いのだろうと、あらかじめ予想はしていた。
 進学先に私立の先進校を選んだのは、単純に、意地もあった、と思う。
 父と母はおれが中学に入ったあたりから諍いが増えた。母はいつも大丈夫だと笑っていたが、怪我が増えていることくらい、おそらく、おれでなくとも見抜いていた。例えば教員とか。何度かおれは養護教諭に呼び出しを受けたし、警察にも世話になった。保護しようとしてくれている大人の手を取ることは容易かった──……母親を見限ることを選べれば、の話だが。結局父と母は離婚を選んだが……それが円満だったかと言われると、現状をみてもらうほかない。証拠を碌に集めることもかなわないまま調停はすすみ、押し切られる形でなし崩しに家や財産やらを踏み躙られた、と言える。まあともあれさっさと別れてくれればなんでも良かったので、特に何も言わなかった。痛々しい母を見て何もできないことのほうが、よっぽど心労になっていたからだ。
 だからそう──、結局こんな選ばれた人向けみたいな学校を……特待制度を使ってでも、安く済む道みたいな生き汚い手を使ってでも、この道を選んだのは、別におれたちだって自分たちだけで生きて行けるという意地があったのだと思う。

 話は逸れるが、進路相談が本格的に進んだあたりで、おれの体に異変とよぶべきことがおきた。
 それは変な夢をよく見ることだ。
 正確にはこれが夢なのかもよく分からない。
 なんだか誰かが隣で笑っていたり、もやのかかった怪物のようなものが引き裂かれていたり、白髪の巨人にだれかが振り回されていたり、黒くて長い髪の青年を撫でていたり、世界が突然ひっくり返ったりするのだ。……よくある、夢らしい夢といえばそうなのかもしれない。何が変なのか。
 目が覚めた時、虚脱するような思いがあるのだ。まるで、出ていかないで、ここにいて、と己に追い縋る何かを振り払ってしまったかのような、どうにもならない後悔が胸に黒々と残っている。だからせめて、おれはその夢を明瞭にしようと再び目を伏せるのに、起きてしまえばなんてことない。蘇ってくるのは、街角のざわめきのような、誰とも判別のつかない声の群れだけだ。はやく来いと漠然と思った。そんなに遠いところで囁かれては、悪態をつく事さえままならない。

「ええと、クラス分け……」
 人だかりを辿れば、目当ての掲示物はすぐに分かった。指先で自分の名前を確認する。こういう時は旧姓の方が便利だった。当てがわれた番号を記憶して、下駄箱をあける。
「えっ⁉︎」
「あ?」
 その時だった。ほど近い場所から、声がかけられたのは。
「おまえ、え、同じクラスなの⁉︎」
 はずむような声、少し紅潮している頬、朝と同じように掴まれる肩、覗き込む真っ赤な瞳。青みがかった黒馬のような髪の色は、日差しをうけて金色に光って見えた。瞳孔は何故か左右で違ったけれど、そんなこと気にならないくらい、やけに綺麗な奴だと思った。
 そのどれもに、
「……あんた誰?」
 見覚えはなかった。

◾️

 人の声が渦巻いている。
 大通りを通る時と同じだ。
 音の波形が似通っていて分けられない。もっと大きな声で話してくれないと。
 船の上にいる。
 青い海だ。いや、空か?わからない。
 多くの人が多くの人と語らっている。笑っているのだろうか。
 近くで何人か喋っている。聞こえないよ。もう眠いんだ。
 馬鹿だなあ、おまえ、そんなにしおらしい事いうような奴じゃ、なかったろ。全部分かってるんだから、言わなくってもいいよ。
 泣いていなくて良かった、そしたら眠っていられないから。
 おれはただ、わらっててほしいだけなんだ。
 それから、ただふつうに、おまえと……

 「おまえ」は誰だ?

◾️

 同年夏。櫂佐とはすぐに仲良くなった。
 所謂金持ち高校なことは知っていたので、そんなに意外でもなかったが、おれでも聞いたことのあるリゾート経営の家柄と聞いた時は流石に喉を鳴らした。こんなボロ屋で麦茶を飲みながら、「暑い」と文句ばかり垂れて提出課題をさぼるおまえがそうなのか。世界とは案外狭い。
 櫂佐はなぜだか出会った時からやたらとおれを巻き込みたがった。……自惚れではない、多分。

「あ……お、俺……、皇櫂佐。俺のこと、し、らない?」
 ぎゅっと握られた肩が痛かった。
「知らねー」
 痛え、と健康的な腕に目を寄せながらそう言うと、心底驚いたと言わんばかりに、力無く、悪いとだけ呟いて離れていった。
「……本当に、分かんねえってこと?」
 初めて会うやつなのに、どうしてこんなに心が汲めるのかは知らないが、おそらくこいつの顔に出やすいところが関係している気がする。とても、……とても寂しそうにみえた。
「有名人アピール……? 悪い、おれは高校からなんだ」
「そ、それは知ってる、え、じゃあ名前は⁉︎」
「え……ゆ、悠太……、林郷悠太」

 それからはもう大変だった。
 やたら影響力のある声のでかさでこいつ俺の隣の席だから!と引っ張られたり、部活に入ると面倒だから助っ人で色んなところに顔出そうぜ、と言うので、今までやったことのないスポーツを無理やり覚えるはめになったりもした。サッカーはもういいかな。走るだけのは悪くなかった。
 おれが自転車で通学していると知った翌日、自転車を買いそろえてきた時には驚いた。暑くなる前に行けるところまで遊びに行こうと詰め寄る白黒の瞳孔に、行き方は俺が調べんのに?と反論すれば、分担だろ、と笑う。こいつといると、本当にどこまでも行けそうな気になれるところを気に入っていた。結局帰りが遅くなって、補導の警官のステルスゲームになったのはおもしろかった。母には死ぬほど怒られたが……。
 とにかく、上記の比にならぬほど、色んなことに付き合わされた。おれの何がそんなに良いのか、はたまた物珍しいのかはしらない。だけど、屈託なく笑い、全部を使って寄りかかられるのを、これほど丁度良く感じられるとは知らなかった。手を伸ばせば側にいる、郷愁を偲ばせる安心感が、なぜかいつもそこにあった。お前もそうだったら良いが。
 そうは言えど、流石にそんなばかりじゃまずいのだ。おれは学力推薦による奨学生だったので、そんなに勉強を疎かにできないことを伝えたことがある。すると櫂佐は眉を下げて、「やっぱり頭いいんだな」と言いながら、困ったみたいに笑っていた。時折するその顔を見ると、一体なぜなのか分からないが、ひどく、悲しませているように思えてならなかった。今度勉強教えてと、すぐにいつもの彼に戻ったが、おれには、それが──そういった時の表情が、どうしてか、貼り付けたものだとすぐに分かるのだった。

 扇風機にあたっている櫂佐を横目に、シャーペンを再び走らせた。麦茶の氷が溶けて、音を立てて落ちた。何をしにきたのかと問えば、どうせ、お前ん家に遊びにきたって言うんだろう。そんでそこで寝るくせに。だから何も聞かなかった。
 汗ばんだ前髪が鬱陶しくて、母親のでっかくて平べったいクリップを拝借しにいった。ボロ屋は当たり前だけど広いもんじゃなくて、おれの部屋は居間を引き戸で仕切っただけのところにある。母親の部屋は収納部屋をそれっぽくしただけの場所なので、どっちが良いかはどっこいだ。洗面台でついでに顔を洗い、戸棚を適当に漁って菓子を見繕った。引き戸の隙間に足をつっこんで開けるのは最早慣れたもので、「ポテチとカントリーマアムどっちんする」と声をかけながら入った。……が、返事はなかった。二人分のノートや資料集なんかおいたらぎゅうぎゅうになる折りたたみのローテーブルに、さっきまでいなかった櫂佐が、やけに真面目な顔で両腕を置いていた。
「んだよ、勉強する気んなった?」
 おれは甘いものが食べたかったので、ポテトチップスは適当に脇に投げ置いて、カントリーマアムの袋を開けながらその前に座った。
 櫂佐は首を横に振る。やらんのかい。
「ユダはさあ」
「ユダ?」
「あ、悪い、ユータが濁っただけ」
「んん? うん?」
 大袋からココアの方を抜き選んで食べた。ゴミ箱が少し遠くて、腕をばたつかせると、櫂佐はため息をつきながらおれのほうに黒い円筒をよこした。ありがとう。
「……真面目な話していい?」
「え、何……」
「真剣だから茶化したりすんなよ」
「分かった」
 頼む、と念を押してきた。
 なんだか知らんが、おれはカントリーマアムも一旦脇に置くことに決めた。
 それを見たからか大きく口を開けたが、またぎゅっと一の字に結び、唇を噛み、眉間に皺を寄せていた。何も言われていないのに、出会って間もないはずの男に「おれにも言えないのかよ」と思わず噛みつきそうになった。
 ただ黙って待っていれば、目を逸らしたままこいつは小さく話し始めた。
「……前世とか信じる?」
「……真剣なんだろ、馬鹿にしたりしねーよ」
「うん」
 ちらり、と、叱られた子どものようにこちらを窺いながら、少しずつ会話が続く。
「俺ね、ずっと探してるやつがいんの」
「おう。どんなやつ?」
「信じる?」
「手伝うよ」
 聞くや、櫂佐の顔はぐにゃと歪み、彼の大きな掌が覆って、沈んでいった。
「……すげえ、だいすきな、友達なんだ……」
 そんな顔するなよって思ったのに、言えなかった。おれじゃだめなのかとは思わなかった。切実な彼の願いを踏み躙ることはしたくなかった。俯いた頭を乱暴に撫でれば、もう少しと言いたげに腕を掴んでくるのを、振り払うこともせず、櫂佐が満足するまでそうしていた。
 母が作り置いてくれていた二人分の飯を平らげた後、日が暮れても夜になっても、ただ黙って暑さを分け合っていた。課題は一向に進まなかった。

◾️

 どこかわからない道を歩いている。
 ぐるぐるとまわりを見わたしていたら転んだ。
 未だ声には判別がつかない。目の前の人間が、こちらを揶揄って笑っていることだけわかる。
 そいつはそのまま、自信に溢れた顔でこちらに背を向けて歩み始めた。
 それがなぜだか心地よかった。
 走り出せばすぐに隣に行けると、わかっていた。

「大好きだよ、◾️◾️」
 誰だよ。
「俺の大事な友達」
 待ってよ。
 満足すんな。
 まだ目覚めたくない。
 返事ぐらいおれにもさせろよ。

「分かってるよ、全部……」

 馬鹿が!
 こいつ何言ってんだ?
 分かってるって何がだよ!分かってるのは、……分かっていないのは、思い出せないのは──……

 水の音と共に、自分の内側に何かが無理やり入ろうとしている。炭酸のように泡になって体にまとわりついては、はじけて身体に染み込む。その度に胸が痛んだ。見覚えのない風景に対する猛烈な郷愁。帰りたいという思いに首を振った過去が巻きついて浸透していく。首を垂れそうになる「何か」を見ても、ただ笑い銃をかまえていた。あの世界はいったいどこなのか。赤黒かった視界は一瞬で美しい青へとかわってゆき、眩しく、遠く、尊く思った。
 

 目が覚めた。
 暑さがひそまる夜明け前、遠くで鳴き始めた虫の声より、自分の鼓動がうるさい。
 血流を聞きながら、ぼうっと明けていく空をみていると、雲が昇る日を隠し、窓の中に己の顔が写った。現実がぎゅっと押し寄せて、携帯電話を思わず掴んだ。急いた指先はパスワードを数回間違えさせた。
 メッセージの一覧の一番上、そこにある名前が滲んで見える。

「バカイザー……?」

 なんだおまえ、ちょっとは足速くなったんだ。
 

◾️

 翌年秋。
 とはいっても「それおれだよな!」と言う勇気もタイミングも格好も分からず、ずるずる一年経ったまま今日までを過ごしている。
 いきなり「思い出したよ」とか伝えたら、どうなってしまうのか分からなかったので、ちょっと様子を見ることにした。もしかしたら今現実と思っているこの状況自体が、何かおれらに都合の良い夢みたいなもんなのかもしれんし。とんでもないことを経験しすぎて(実際に経験したのはおれではない、訳ではあるが……)、何に警戒したらいいのか全く分からん。
 これを幸福と呼ぶかは知らないが、過ぎ去ったものは今やとても遠くにあった。自分のことだと確かに実感を持てはすれど、「このからだ」はやはり十七のものであることに変わりはなく、自分のアイデンティティなどが崩れて変化するようなことは無かった。

 自分の記憶の有無みたいなものを明かせなかったのには、もう一つ理由がある。

 だって悔しいだろ!

 完全に負けた、あれだけノロマと罵っておいてこの様だ。いや、まあ、生きてくうえで考えなきゃいけないことは沢山あったから、あいつにだけかまけていられなかったのはそりゃそうなんだけど……。何かぎゃふんと言わせたかった。タイミングはこっちで決めて良いよな!?という子どもっぽい思いがあった。子ども、だし。そう、子どもなんだ。お互いが何なのか、どんな形なのか、魂の色まで分かっていても、おれはまだ「櫂佐」のことを知りたかった。こんなに変なやつはこいつの他に何処にもいないんだから。

 晴天の下の教室、日差しもすこし冬の色を湛えてきていた。心地よい窓際で昼ごはんを食べている。
 櫂佐の弁当はいつも彩り鮮やかで量が多い。おれは大抵、冷凍食品を適当にレンジに突っ込んだのを母と分け合っていたので、到底考えられないものだった。時折(とはいえ高頻度だ)菓子パンが増えるのは二人とも育ち盛り故のことで、今日はクロワッサンを買っていた。値引きシールが貼ってあった。
「そんでさ、結構部屋にもいっぱい遊びに行ったんだ」
「うん」
「そしたらブランケットが増えてんの! 金色の糸がいっぱいのやつ」
「へえ」
「そいつ寒がりだから毛布なんかベッドの上にめちゃくちゃいっぱいあるんだぜ、でもなんか……柄がなんか〜……」
 弁当の横に箸を置いて画像を検索する。民族、模様、とかなんとか打っている。エスニック柄と打てば一発だぞ〜と思っていたが、こいつの頭からそんな単語が飛び出す日は来るのだろうか。
「こんなやつ! こんなばっかりなんだよ」
「ふーん」
「だから……え? 言ってる意味わかる?」
「…………意味?」
 最後の唐揚げを口に放った。
「こいつ、めっちゃおれのこと好きじゃんって意味‼︎」
「ゲホッ」
「えっうわ大丈夫か⁉︎」
「いい、いい、いらん」
 自分のペットボトルの水を差し出そうとしてくる男を制した。
 知りたいとは言ったが、別におまえからの俺の評価が知りたいわけではないのよ。いや、知りたくない、というのは、嘘になるけど……。ていうかあれ?でもおまえ、そんなこと言う割にはそのきんきらのやつ使ってなかったよな?いっつもおれのお気に入りばっか使いやがってさあ。お前用にって分かりやすいように用意したんだと思うんだけど?その意図は伝わってたっぽいんだが、何が嫌だったんだこいつは。
 よく分からんまま吹き出したものを処理していると、気遣いなのか、櫂佐がカラカラと窓をひいた。秋風は心地よく教室に流れ、日でほてった体には確かにちょうど良かった。
「だから早く会いたい」
「……おー」
 居た堪れなくなり、気を紛らわせようと動画サイトを片手に開く。ショート動画やおすすめ動画を適当に触れては上にスワイプを続けて、指が止まる。
「ん、フフ」
「なに、なんかおもろい動画?」
 櫂佐が笑顔でこちらに身を乗り出す。
「そっくり」
 バーニーズマウンテンドッグがまるで笑ってるみたいな表情で散歩に繰り出している動画を、そいつの顔に並べる。正に今笑っているそいつと本当によく似ていて、思わずまた声を上げて笑ってしまった。
「そんなに似てる?」
「はは、やばい。顔いたい」
「おい櫂佐ー」
 教室の外、廊下から、呼び出しがかかる。楽しそうだった櫂佐の表情が、ふっと普段のものに切り替わった。どしたー?と明るく返事をする声は、何用か分かっている者の色だ。「勝手に片しとくよ」とおれがクロワッサンの袋を開けると、「うん」とだけ答えて去っていった。
 バレンタインだかなんだかの時に、櫂佐からゴジラのチョコを貰ったことがあった。本当に意味がわからなくて(脈絡とかゴジラとか)、相当に笑ったのだが……。携帯の中でバーニーズ犬が「ちょうど良さそうな枝」を撮影主のまえに笑顔で落としている。こういうことだったのかも、しれん。
 ホワイトデーの櫂佐はそれは忙しそうで、返さなきゃいけないものをせっせと用意してはきちんと配り歩いていた。忖度分け隔てなく。単純に、ただ偉い。金欠だと嘆いていたので、ゴジラのお返しはコンビニの肉まんにした。違うやつ頼んで半分ずつにしようと言われそうした。こういう時にきっちり半分にしてくるのは目に見えていたので、もうお腹いっぱいと言って、多めにやることくらいしか、貧乏人にはできなかったが。
 どうあれ人の想いを無碍にしようとはしないところは、昔から気に入っていた。ずっと。

◾️

 翌年春。
 卒業式は、あんなに退屈に思っていたのに、いざ自分の番が回ってくると一瞬のことだった。

 母はこの三年間で大分皇一家との交流に抵抗もなくなったようで(最初は余りにも身分が違いすぎると挨拶さえ恐る恐るであった。気持ちはわかる)、遠くで櫂佐を交えて家族間の会話をしていた。お行儀よくお辞儀した櫂佐を見ていると、ぐるん!と向きを変えてこちらに走ってくる。
「おうお疲れ」
 右腕を挙げると、同じように彼の左腕が上がり、両手を音を立てて合わせた後、躊躇いなく背に回してきた。
「わはっ、卒業だっ!」
「大学も一緒だけどね……」
「いちばん良いじゃんか!」
「そーね、おまえはよく勉強頑張ったと思うよ」
 背を叩き労うと聞こえてくる、「写真撮ろう」という周囲の声に顔を見合わせて笑った。最後の校舎だからか、走ることはしなかった。
 三月。「ソメイヨシノ」がひらいている。校内のいたるところに、白い花びらが舞い散っている。校門の前に立つ一際大きな幹の周りには、同じ考えの人だかりができているのが見える。歩きながら、隣り合って他愛もない話を咲かせ続ける。
「おれさー、進学とはまた別に夢があるんだよ」
「うん」
 風は穏やかで、陽射しはやわらかく背を暖めている。金色の光だった。黒い髪の毛はいつもと変わらず黄金にゆれている。
「いっぱい話したじゃん、前世? とかのこと」
「そうだね」
「多分さ、俺たちだけじゃないんだよ、おんなじ風にこの世界にいるの」
「……うん」
「だから全員見つけたいんだ、歳とか……今生きてるのかとか……全然何も……まだ分かんないことばっかだけど……」
「案外近くにいるかもしれないしな」
 桜の周りからひとが一人またひとりとはけていく。泣いているものもいる。
「長え夢路だなー」
 桜の前に歩もうとするおれの制服の裾を、櫂佐が掴んだ。
「その夢にさ」
「ん?」
 大きい手を掴んで、離さないまま振り向いた。
「『大好きな友達』と、一緒に行きたい」
 春一番が吹いている。舞い落ちた花弁を再び咲かせおこす一際強い風。背を押されている。世界がどうなるかは知らないが、今ならどうなったっていいと思った。
「バカイサ」
「え?」
「……そんなの、おれ以外いないだろ、ノロマ!」
 赤い瞳が小さく丸く瞬いた。片方が黒く鈍い瞳孔の意味も、おれはよくよく知っている。勲章みたいなその目をよく見ようと髪をかきわけると、「お前」と恨めしそうな「櫂佐カイザー」が眉を下げる。でも分かった。これは困らせてない。泣かせてだって。そうだな、やっぱり最後にみるならそういう顔がいい。
 携帯が櫂佐の指から滑り落ちる。俺の手からぬきでた体は慣れた手つきで首の周りにしがみついてくる。頬にふれる黒髪の香りはすっかり懐かしい。
 聞こえているよ。大きい声なんて出さなくても。

「その言葉を、ずっと待ってたんだよ、アホ」

 おれはやっと、安心することができた。長い長い旅はまたこれからはじめられる。