初めての戦闘をユダはよく覚えていた。
あなたは立っているだけで良いと言った周囲の「大人」が、自らの両肩に手のひらを置き、全てを乗せて死んでいった。うまく、息ができなくなった。血の気が引いた。血溜まりがゆく手を示すように伸びて絨毯になった。歩くたびに粘性をともなって靴底にへばりついたが、うめき声を隠しきることはできなかった。ただ、目を閉じて先を急いだ。その先で、金切り声が自分の名をよぶ。──名前は新しくしたばかりだったから、ユダははじめ、自分が呼ばれたのだと思えなかった。それでも悲痛さに顔を上げれば、双眸は声の主よりも先に、「神話」を捉えていた。潰れた魚と人の合いの子のような、鱗にまみれた生き物がこちらを見下ろしていた。音だとわかる振動が、魚人のえらから発せられている。ユダは自分を呼んだ隊員を探した。未だに叫ぶ声がしていたから。対岸にいない──自身の足元にいない──そして目が合う。深きものの手に、手足を曲げられ握られているにんげん。よく聞けば、名前を呼ばれていたわけでもない。ただずっと懇願されていたのだ。助けてくれと。
化け物からは何の感情を読み取ることもできなかった。一歩、また一歩、ユダとの距離が縮まる。ああ神よ、どうすればあなたに勝てるというのか。
ついぞと鋭い鉤爪が振り下ろされたその時、ユダの両目は光に焼かれ、虹彩に十字架を携えた。
そうしてユダは、名ばかりでない隊長になったのだ。
X年後。
アルカナ養護院の寄付という名目で、少しばかりの休暇をセントラル・ロンドンで得るアルカナ職員は多い。レイクランドの長閑な風景と空気は格別に澄んでいるが、娯楽や物流の多さでセントラルに叶う地はない。華やかな衣服が踊るように街をかけていく姿をみて、ひとつ口笛をふいた。ユダは今日、レイクランドに逃れてきた避難民をセントラルへの斡旋、孤児たちの養護院移動を業務としていた。馬車へぎゅうぎゅうに詰め込まれた子供たちと共に、街の煙を眺める。セントラルは、湿った曇り空の下、石畳と赤黒い地面が交互に顔を覗かせ、そこかしこに水溜りをたくわえていた。靴を泥まみれにしながら、番重を首から下げた男が、せっせと白いパンを売っている。馬車の奥、誰ともわからぬ声が「お腹すいた」とひとりごつ。
「おい、止めろ」
アルカナ所持者の気だるげな声に御者が手綱を引けば、馬たちはゆっくりと蹄を置いた。ユダは勢いよく扉を開け飛びぬけ、すっかりと冷えたパンを遠慮なしに四、五ほど掴む。そのうち一つを口で咥え、代金の硬貨を指で弾くと、もう用はないと言う風に、そそくさと馬車へ戻って行った。あまりに素早い出来事に、パン売りは慌てて背中に「毎度あり」と叫んだが、帰ってきたのは左手をぷらぷらと振る所作だけだった。
「おら、好きに食べな」
長い背丈をぐにゃりと折りたたんで馬車に乗り込めば、車体は喜びのこえでわっと揺れ、まごまごと再び進み始めた。
アルカナ養護院。
ユダが実際に世話になったことはない施設ではあったが、そこがどんな場所なのかはよく知っていた。雲間をただよう灰色の光が、規則正しく積まれた白い石壁を照らしている。ほのかに眩しい建築物に目を細めながら、外の様子を探るように、周囲を幾度も見渡してからその土地に立つ。と、いうのに──、遠くから豪快な声量が耳を割った。
「あれ、吊る男?」
意図的に無視をして、馬車の扉からこわごわと覗く子どもたちを引率した。
「さっさと降りろー。怖いとこに来たんじゃないんだから」
「レイクランドよりいいところ?」
「風呂もでかいし、飯もうまいよ」
外套の裾を掴んで離さない、茶色の癖毛を、ぶっきらぼうに撫で、背を押す。そう聞くや、列の先頭に立った子らがはしゃぐように駆けてゆく。ユダの背に隠れていた子どもも、そうっと手を離せばそれが最後だった。まってよ、と頬を染めて走り出す。溌溂極まりない様子に口角をあげて、石造りの壁をみやった。乾燥させた生花が、逆さまをむいて咲いている。遊戯会か何かで作ったような蔦と花輪の装飾が、競い合うように石くれを彩っていた。
「おー……、昔作らされたなー、これ」
花輪に触れて記憶を辿っている中で、走る子どもから声がかけられる。
「ねえ、どの部屋にいけばいいの?」
「あー、養護院の人が来るまでは、自由にしてていいよ。その代わり、迷惑かけたら追い出すからな」
「きゃあ」
襲いかかる真似ひとつ見せるだけで、蜘蛛の子を散らすさまが広がる。背後に、笑い声がかかった。
「ユダさんは子供の相手が上手ね」
「勘弁してくれ……」
近くまで来ていたその初老の女性が、「あとは代わるわ」と続けた。ユダは一礼をして、心なしか速足にその場を去った。遠くから、また、「おい! 無視すんなよ!」という声が聞こえてきていたが、それもまた、無視した。
院長に引き渡しの書類を渡し、執務室を出た。簡素な絨毯の敷かれた廊下を歩いていると、木窓の向こうではずむ笑い声に、ユダは思わず窓をあけた。心地良いそよ風と共に、木々が揺れている。階下では子どもたちがかけっこだか鬼ごっこだかをしているようで、捕まえた!とか、やめろよ!だとかの声がほころびながら繰り返されていた。
「いいねえ」
窓枠に肘をつき、それを眺めている。帰りの時間にはまだまだたっぷり余裕があった。セントラルに自らの足でくるのは久しぶりのことであったため、何か買って帰ろうかと思案しながら、はしゃぐ幼い群れに微笑む。アーキルメイの興味のありそうな菓子だとか、イルは背丈が伸びていたようなとか、ヴアシは特に何も欲しがらなかろうだとか、シンはもう少し喉を労るべきなのではないか、とか。
1番背の低い子どもが、「アルカナパンチ」とふざけている。その後も、今おれが庇っただの、おまえは背丈が足りないだのと、五感の追いつかないはやさでこどもの世界は回る。
ユダは花輪のことを思い出していた。
そんなものを作ったことなどないのに、「次回、養護院に飾るためのものですから、みなさん奮って作ってくださいね」と材料の山が置かれた日のことを。そして、なぜおれが?の問いを見透かすように、隣を陣取ったやつが声を張っていた。「子どもが喜ぶんだよ。おもしろいぜ〜、カイザーさまのはどれだゲームしてるガキたちは!」男は乾燥させた蔦を豪快に掴むと、手慣れた様子で編み合わせ始める。作らせるまで終わらない空気に、渋々と手を伸ばした。どうせ、来年には死んで燃え尽きているというのに。そう思いながら、ユダはここまで生き延びてきた。花輪の作り方は、すっかり覚えてしまった。熱心に作らなくとも、器用な誰かにやってもらうなんていう逃げ方も覚えて、ここ十数年は枯れ蔦を編んだこともない。頭をがさがさとひっかけば、これは? と言いたげに、長い三つ編みが指に絡んだ。その髪を持ち上げながら、右を向く。
「おう! ご苦労さん、吊る男」
「おう。なんでいるかね」
「セントラルで俺から逃げようとか一〇〇年早いだろ」
「おれより足おっせえくせに」
ひとしきり笑った後、カイザーが隣の木窓を音を立てて持ち上げた。幾人かがそれに気づき、わっと手を振っていた。
「感傷に浸んのは楽しかったか?」
「仕事しにきたんだよ」
「花輪とか眺めちゃってな〜」
「セントラルにゃ暇人しかいねえのか?」
窓の向こうに笑顔をふりまきながら罵り合った。といっても当人たちにとっては挨拶のようなものだったので、年季の入った養護院の職員たちはどうでもよさそうに通り過ぎていた。院内で誰かが鐘を打っている。昼食時がきたようである。今日の献立を思いつく限り叫びながら、子どもは散り散りになっていく。そんな時間かと、ユダは懐から包みをほどき、白パンの残りを口に入れようとした。ただ少し、視線がうらめしそうに鬱陶しいことにも気がついていた。
「……半分やろうか?」
「え? マジ?」
「うん」
「……え⁉︎ マジ⁉︎」
「そこまで疑うやつにはやらねー」
「あ!」
一口でパンを押し込んだ。口内の水分は吸われとんでしまったが、けらけらと揶揄うことはできたので、特に後悔していなかった。
「俺も養護院に元々用事があったんだけどよ」
声が遠ざかりながら投げかけられる。ついてこいと言われているのだ。ユダは咀嚼を続けながら、がちゃがちゃとうるさい衣擦れの男に並んだ。
「こ〜れ、おまえどうする?」
いくつか並んだ部屋のひとつへと二人は進む。簡単な講義室のような体裁をとっており、いくらかの椅子や机、また黒板が設置されていた。子どもが作りかけているなにがしかや、誰が収集しているのかもわからない石ころや枝きれがぐるりと囲む部屋の前方で、真黒い板に大きく「世界が平和になったら何をしますか?」と白い文字が問いかけてきている。
特別学があるわけでもなかったので、情操教育の心労はユダにはわからなかった。しかし、これを子らに問わねばならない大人の気苦労を思った。完全に保障されたわけではない未来を、それでも手放しに信じなさいという、未来の芽に対するエゴイズムだ。利己性を強く自覚した上で、確かに「子ども」はそうあってくれと、ユダも今でこそ思うことができていた。「どうって」といいながら苦笑する。
「結構難しくね? 平和んなったことねえしさ、今のとこ」
こいつも結構考えているのか、とよぎった考えを払拭した。頭上で手を大袈裟にふり、くだんねと吐き捨てると、その部屋を出た。商店街にでも出て、もう少し何か腹に入れよう。馬車に向かって歩みを進める。
「知らねえ」
「あっおい待てよ」
「散歩とかじゃねーの!」
「散歩お?」
「そー、大層な椅子に座んのはもう懲り懲りだよおれは。適当に好きなとこ歩くぜ。平和んなった世界とやらを」
「……おお?」
院内を歩くだけで、昔の自分たちを呼び起こすようで落ち着かなかった。ここで過ごした思い出はない。ここで過ごさなかったことを悔いたこともない。ここが悪い場所だとは思わない。こんなにうるさい男が成形できるのだからそれはない。だが、こんな場所を作らなくてはならない世界を思ってしまう。
「……いいなそれ、俺もそうすっか」
「あ?」
「ユダと散歩でもすっかな!」
「は〜?」
「そんで適当に、外の世界にうまいもんでも見つけに行く!」
「なあ〜んでお前のお守り前提なんだよ……」
ユダの靴は革張って軽く、カイザーの靴は金具が多くて重たかった。彼らの背丈はほとんど等しいが、絹づくりの重たい外套は異なるリズムで揺れていた。縛った長い髪は午後のまだるい風になびき、鎧の嵩張りはずっと大きな威圧感で院を歩む。それでも歩幅はなぜか似通ったもので、どうしてか振り払えるようなものではなかったらしい。
「な! 決まりな!」
「お前が忘れてなきゃね、バカイザー」
なんでお前も馬車にとは、もはや誰も聞かなかった。御者が手綱をふるうと、煙ののぼる街々へ、いななきはすすむ。
